まほろば氷見

今、氷見は遺跡・古墳ブーム(?)


はじめに

■遺跡の調査報告や解説では、どうも歯切れが悪く、話が見えてこない。 それならば、と勝手に「まほろば氷見」物語をでっち上げ、このページを作ってしまった。

■ところで、漫画家の里中さんは凄い方だと思った。 大塚先生に対し「私は学者で無いので、色んな人物や出来事が想像できるの。」 と、言ったのが印象的でした。
また、東四柳先生によると、 あのNHKの大河ドラマ「利家とまつ」でさえ、史実と違う場面が多いとのこと。

古墳

■このページも、学者が唱えると「仮説」となるが、私が述べると「氷見の偽書」として、いずれは検索の対象とされるでしょうね。 従って、学生さんはこのページを信用しないでね。全くのフィクションなのですから。
例えば、秀真伝(ほつまつたえ)・神代文字・越文字・竹内文書を Googleで検索してご覧なさい。あるわあるわ。 これらは前置に偽書としながらも、熱意を持って紹介されていますね。ここは、そんなページなのです。


ミトコンドリア・ヒミ

■ミトコンドリアDNA

今から10〜20万年前、アフリカの南端でミトコンドリア・イブさん(ネグロイド)が生まれた。 父も母も分かっていないが、猿人や原人とは決定的に違い、絶えることはなかった。 5〜10万年前、彼女の子孫は温和な土地を求めながらアフリカを離れ、 あちこちと、35のグループに分かれ移り住んだ。 寒い土地に移ったグループ(コーカソイド)は、肌の色が黄色や白に変わってしまった。 その後、9グループが再び日本で出会うことになる。 D,M7,Bの黄色いグループが主であったが、 それにG,A,F,M9,CZ,N9の各グループが加わった。

参考
遺伝学電子博物館DNA人類進化学

ひと

■「日本人はどこから来たか」をGoogleで検索してみると素人・玄人が入り混じり、出るわ出るわ、山ほど出てくる。 賢明な方なら、このページの文章は全て、でっち上げだと言う事が直ぐに分かるでしょうね。


旧石器時代

■モンゴロイド

Dグループは北方人、Bグループは南方人(オーストラロイド)、M7グループは縄文人と呼ばれた。 原住の猿人・原人は寿命が短く、絵画や音楽を理解しモノを作り出す能力も無かったので、 やがて、原住民を追い出してしまったのである。 特にDグループは、赤ちゃんのお尻が青いモンゴロイドと呼ばれた。 しかも彼らは、他のグループに比べ最もネオテニー(幼形成熟)なのだった。 つまり、子供のまま大人になってしまう劣ったグループなのである。 しかし、成熟が遅いと言うことは、学習・訓練期間がそれだけ長くかかるので、 返って、知能の発達や環境の適応に有利だったかも知れない。

参考
WikipediaHuman mitochondrial DNA haplogroup
□もっと大きな地図はこちら。(北極が中心なので、分かり難いかも。)

DNA2

■旧石器時代

洪積世後期(約15万年〜約1万年前)、日本列島は朝鮮半島と地続きであった。 大陸からやって来た人間は、狩猟生活を営む人々であった。

参考
忍者かすこばの旅行帳先史・旧石器・縄文時代


縄文時代(前期)

縄文時代

■縄文時代

縄文時代(約1万年前〜紀元前300年頃)あたりから日本人は定住生活を営むようになった。 氷河期の繰り返しが終わり、気候が安定した年代となったため 人々は竪穴式住居を建てて家とし、集団生活のムラを作った。 当然、狩りや漁に都合が良いように山や海に近い台地が選ばれている。

■山々の人々

当時の氷見は、いわゆる縄文海進と呼ばれた時代で、海面が現在より6メートルも高かった。 従って、リアス式海岸のように山が海に突き出していたので、平野部が全く無かった。
殆んどの人々は、石川県境に近い山々で過ごし、 野生の小豆や晒したどんぐりを食べ、山水を飲んで暮らしていた。 彼らは、手足は長いが背丈は低く、角張った顔つきで彫りが深く、二重瞼の縄文人(M7)でした。 衣服も動物の毛皮だけでは無く、既に植物繊維の衣服をまとっていたのです。

■平野の人々

仏生寺川、上庄川、余川川などの上流域では、堆積により僅かに平野部も増え、 少しは陸稲(赤米)も栽培できるようになった。
生活も、家族単位から少しずつ集団生活となり、湾の周囲には集落もでき始めた。 そして、物々交換や交流の範囲も広がり、土器などの製作技術も上がっていった。 食物も、貝や小魚が加わったので、豊かに暮らせただろう。

■海辺の人々

立山や飛騨など大きな山々を抱えた所は、洪水により広大な扇状地やデルタを作った。 海に流れ込んだ大量の土砂は、海流やあいの風により、新湊や氷見に運ばれた。 雨晴など尖った岬は削られ、凹んだ放生津や氷見に砂洲として集まった。 大きな山の無い氷見は、湾のままだったので、砂洲に囲まれた潟となったのである。 その潟は天然の港となり、漁撈や交通に便利であった。 人々は渡来人に習って、大きな舟を作り、操った。 勇気あるものは、富山湾に繰り出しただろう。


縄文時代(後期)

■越人

中国の長江流域には、越人(えつじん)と呼ばれる稲作漁撈民がいた。 ところが縄文時代晩期(三千年前)に、中国では大きな気候変動が有ったため、 北方から畑作牧畜民が南下してきた。 越人は追いやられ、あちこちの山々に逃れたが、 一部の人々はボートピープルとなった。
彼らは縄文時代前期(六千年前)から日本と行き来していたので、 不安や恐れは無く安心して、やって来たのだろう。 そして、対馬海流に乗り、日本海沿岸の山陰・北信越とに辿りついた。 一部の人々は天然の港、富山湾・氷見にも上陸した。

■氷見人との出会い

畑作牧畜民から追われ、海洋を渡ってきた彼らにとってみれば、 狩猟採集民の氷見人(縄文人)に対して、恐怖は全く感じ無かった。 むしろ好意的に氷見弁(アイヌ訛り)を吸収し、次第に同化していった。
更に陸稲(赤米)しか知らない農耕民には水田稲作を、 果物や貝の採集民には舟を使った漁撈方法を伝えたので、 氷見人は充分に自給自足が出来るようになった。 余裕が有れば、得意の舟で姫川(新潟県)当たり迄、行き来し、 珍しい石でも、簡単に手に入れる事ができた。

■越文字

越人は長江にいた頃、既に文字(象形文字)を使っていたし、 縄文人も既に神代文字(アイヌ文字)を知っていた。 彼らの文字は直感的だったので、氷見人には直ぐに理解できた。
当時の文字(神代文字)は表音文字系が多かったが、 ごっちゃになり、越文字(象形文字系)となって広まった。 この事は彼らの日本海沿岸交易に大いに役立ったのである。 そうして、後世の漢字や万葉仮名を受入れる下地が出来上がった。

■日本海沿岸交易

同じように越人との文化の影響を受けた地域、 すなわち越後から出雲の人々とは気軽に交流・交易でき、 次第に同朋として各地に拠点が出来、それぞれが経済的に豊かになっていった。 いわゆる弥生景気の幕開けである。
後世の出稼ぎ氷見人の原型であり、陸路の時代ではブリ街道や担ぎ屋である。 はたまた北海道やブラジルに移民として行ける下地が出来上がった。


弥生時代

弥生時代

■水田稲作

水田稲作は、あっという間に日本の各地に広まった。 それに従い人口も増え、経済的にも豊かになった土地が増えた。
しかし、気温や平野に恵まれない山間部では、 依然として縄文時代の生活が続いた。 豊かになった土地でも、稲作を巡って土地や水の争いが絶えなかった。 土地を守るために、あちこちで集団の力が大きくなり出した。

■土地の事情

しかし、出稼ぎ氷見人は土地に対する執着は少なかった。 むしろ、漁撈や舟の拠点、海路を失う方を恐れた。 後世でいう職業であり漁業権である。 土地とは、帰って眠るだけの場所なのであった。 因みに平成の現在でも、海老坂は通勤の自動車だらけである。
その昔、氷見の平野部は海底の浮き沈みが繰り返され、 塩分を含み、稲作に適した平野は限られていた。 地形もリアス式であり、他のような堆積・扇状地は少なかった。 せいぜい阿尾・上庄・仏生寺川の上流域だけである。 開墾したとしても、いわゆる棚田であり面積は限られている。
従って、他の地域の人々にとっては、 氷見人と戦って棚田を手にいれても魅力がなかった。 まして海を手に入れても、使い道を知らなかったのである。 ハイリスク・ノーリターンでは誰だって嫌なものである。


徐福伝説

■徐福伝説

紀元前210年、秦(しん)の徐福さん(斉生れ)が率いる大船団が日本に渡来した。 一隻あたり250人強、総勢3,000数百人の大集団であった。 表向きは始皇帝の命により、不老長寿の薬を求めて、東方の蓬莱山へ目指すと言う。
しかしその実、集団亡命であり、徐福さんの大博打であった。 秦に征服された「楚・燕・斉・趙・魏・韓」から良家の子女や専門職人が集められ、 自由な国を求めての渡来であった。 そして、その約半数は九州に上陸し、残りは日本海側・太平洋側と各地に分散した。 その若い男女の子孫が、当時の弥生人に影響を与えたと言う。
(この当たりは、アメリカ史に似ている。 徐福伝説 が詳しい。)

■氷見の人口は?

先史(紀元前)日本後期における日本列島の人口は約26万人らしい。 それが晩期には16万人に減少してしまう。 そして、西日本では東日本の2割に満たなかったという。
その後、上代日本初期の人口は約60万人と増加する。 それでも、氷見ではたった50〜500人なのか。
(日本の人口の0.05%が氷見の人口とすると。都市化が進んでいない当時なら0.5%なのか。)

関連
100人の村・ひみ


倭国大乱

■イズモ対ヤマトの戦い

当時の朝廷、ヤマト(大和)は、 ニギハヤヒ(大物主・天火明命・天照国照彦天火櫛玉饒速日命)を祭祀とていたが、 スサノオ(素尊・素盞嗚尊)を祭祀とするイズモ(出雲)を、苦々しく思っていた。 イズモは自治区として特別扱いされていたが、全国統一の為には、併合しなければならない。 東軍はヤマト、西軍はイズモ。天下割れ目の、いわゆる宗教戦争が始まった。
戦場はイズモ。 日本海交易を通じ親交が深かった氷見人は、レジスタンスとして陰ながら西軍に味方した。 しかし、両軍とも決着が付かず治まら無なかったのである。

■ヒミコ(卑弥呼)

そこで登場したのが、ヤマト・トトヒ・モモソヒメ(倭迹迹姫・倭迹迹日百襲姫…孝霊天皇の皇女という。)である。 彼女は、ニギハヤヒの妻を名乗る妙案を思い付いた。 そうすれば、同時にスサノオの娘となる訳だから、双方も和解できるだろう。 従って、大和朝廷の孝霊天皇も納得し、退位(187年)してしまった。 そして、祭祀は三種の神器(剣・勾玉・鏡)に統一されたのである。 その後、孝元天皇が第八代として即位したが、 彼女の身分は、天皇より上位となったので、邪馬台国女王ヒミコ(卑弥呼)と呼ばれた。
(この当たりは、 古代史の復元 倭国大乱が興味深い。)


古墳時代

古墳時代

■銅鐸なんか

当時は周囲の集団を従えさせるため、 中央政権からは祭祀に必要な楽器(銅鐸)が配られた。 それは稲作農耕民(弥生人)の常識であった。 しかし、漁撈民の氷見人にとっては、そんな物は役に立たない代物であり、興味を示さなかった。
それより、人々にとって墓の方が大事だった。 それも、横穴や小さな円墳で充分だったのである。

■狗奴人(?)

だが、どうも円形では具合が悪い。整列に格好が付かないのである。 そこで、参列に便利な方向を定め前方部を追加し、席順を定めた。
韓国から帰化した人達の一部では、四隅突出型の墳丘墓を考えた。 これは実に機能的だった。方向や席順が一義で決まるのだから。 そして、これ迄の土から石も加わり、何よりも優雅だった。 出雲から日本海沿岸に、あっという間に流行しだした。 越人と帰化人の末裔、これらの人々は狗奴人(くなじん)と呼ばれた。


古墳時代(前期)

■回船問屋のある日

冬なので、店を閉めていたある日、 (株)柳田の布尾社長は(株)ヤマトの情報を聞いてビックリした。 何でも本社は奈良県の纒向(マキムク)にあり、出雲営業所からの情報によると、 岡山県の(株)吉備(キビ)も合併したという。
そうこうする内に、大彦命(オホビコノミコト)という北陸担当重役が現れ、 「これからは前方後円墳が流行しますよ、格に応じて大きさはこうです。」 また「そうしなければ、今後の取引はできません。」と。
驚いて、狗奴(クナ)系列の(株)東海に伺った。 「うちは東海担当の武渟川別(タケヌナカハワケ)さんから伺いました。」さらに、 「はいはい、と言っておけば良いですよ。だって、うちらはヤマトの大株主だし、 営業現場の山陰・北陸とで総会はひっくり返せますよ。 ヤマトたって本社機能だけですから。それにしても先代の女社長(ヒミコ)は・・・」 と、長々聞かされた。
そこで布尾社長は決心した。向こうは陸の商売、こっちは回船。 取引ったって失う物は何も無い。 「息子の常務に伝えろ、ワシの墓は祖先の流れを汲む後方墳にしなさい。 それも前方部のドデカイやつを。」

■中央政権

当時の中央政権はどこだろうか。 そんな事は氷見人にとっては、どこでも良かったのである。 交易を通じて情報が刻々と伝わっており、今度はどこ?程度であった。
当時の戦争はおおむね原因は土地である。 海洋とか思想を巡っての戦争は、千数十年後なのだから。 従って、賢明な氷見人はヤマトには逆らわなかった。

平安時代 続く・・・

縄文人?それとも弥生人?

■あなたは、元々の東南アジア系の「縄文人」なのか、 東北アジア系から渡来した「弥生人」なのかを、テストで確かめます。 質問に従い、「はい」のボタンをクリックして下さい。

■それぞれの答が終わったら、「判定」ボタンで結果を確かめてね。
佐原真:著「考古学つれづれ草(小学館)」から引用・修正(改悪?)しました。

どちらかと言えば、瓜実顔(うりざねがお)で、上下は長いと思う。
眉毛は薄いほうである。
一重(ひとえ)まぶたである。または、途中で二重まぶたに変わった。
顔の起伏が小さい。または割と「のっぺり」している。
鼻の幅(はば)は、やや狭いと思う。
唇は、薄い方だと思っている。
耳たぶは小さい。
ひげは薄い方だと思っている。
耳垢は乾いている方だと思っている。
脇の下の匂いは、気にならない。


氷見の遺跡

■この年表は、物語の理解を助けるためであり、信用しないで下さい。 最近の説では、弥生時代はこの表より1,000年も古いらしいのである。

時代年代遺跡
更新世前期200万年前
中期70万年前
後期10万年前
岩宿時代前期30,000年前(先土器時代・旧石器時代)
中期13,000年前
後期12,000年前
縄文時代草創期10,000年前(新石器時代)
早期8,000年前坪池白坂遺跡
前期6,000年前稲積後池遺跡・ 十二町排水機場遺跡
朝日貝塚
中期5,000年前長坂貴船遺跡・ 大境洞窟第Y層
後期4,000年前一刎前田遺跡・ 虻が島遺跡
晩期3,000年前
弥生時代前期2,300年前 大境洞窟第X層
中期紀元
後期200年小久目A遺跡
古墳時代前期300年 柳田布尾山古墳阿尾島田A1号古墳
中期400年中村天場山古墳・朝日潟山古墳群
後期500年園カンデ窯跡・宇波古墳・ 朝日長山古墳
古代飛鳥時代600年余川親ヶ谷遺跡・余川片畑遺跡
稲積西ヶ谷内遺跡
奈良時代700年藪田薬師横穴群
平安時代800年小窪廃寺・余川海老田遺跡・阿尾島尾A遺跡
中世鎌倉時代1,300年神代テラヤシキ遺跡・堀田ワタリウエ遺跡
南北朝時代長坂ソウト遺跡・荒館ソモギ遺跡
室町時代1,500年藪田薬師中世墓・山ア城跡
戦国時代千久里城跡・阿尾島尾A遺跡・ 阿尾城跡
安土桃山時代
近世江戸時代1,600年

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