氷見弁で読む万葉集(巻17)

巻17(3,927〜4,031)は、いわゆる越中在任の初期であった。

はじめに

■彼の任地は越中四郡(射水・砺波・婦負・新川)と 能登四郡(珠洲・鳳至・能登・羽咋)であった。主な任務は、

である。とにかく、自分の任地を把握しなければ、とあちこちを巡る。 見るもの聞くもの、全てが新鮮に写り、 主に呉西域(氷見〜大門など)がお気に入りであった。

史蹟

■万葉集(全29巻・4,516首)の内、家持は約480首の歌を詠んでいるが、 その半数(223〜224首)が越中在任中の作と言う。 とりわけ、富山四郡(95首)の内、氷見(射水郡)の歌(32首)が多かった。


17-3952 大原高安真人(たかやすまひと)作、僧玄勝(げんしょう)伝誦
年月不審

古歌一首、聞いた時のまま。

17-3952

また来年の春も、ずっとこうやって見とるまいけ。

■天平18年大8月7日(西暦746年8月31日)、家持の館で行われた宴の席で、 巻17-3943〜巻17-3955が披露された。 その中の一首で、大原高安真人→僧玄勝からの、また聞きである。 「妹が家に」とは「いく」にかかる枕詞なので訳に入っていない。

■「伊久里の森」とは、現在の井栗谷らしいので、 砺波市井栗谷の寺尾温泉 栴谷神社 に、この歌碑がある。


17-3954 大伴家持
天平18年大8月7日・西暦746年8月31日 29歳

家持の館にて。

17-3954

そんなら今から、あの雨晴の波でも、見に行くまいけ。

■着任早々の歓迎宴席で、さんざん風光明美を聞かされたので、一首。 しかし、家持の館から雨晴までは、 馬を並べて行く程の距離では無い。 (氷見人は、500メートル先でも車で行くが。) もう酒宴が進み日暮れとなったので、時間が迫った関係で馬を利用せざるを得ないのか。 はたまた満潮だったので、岩崎鼻の山越えコースが辛いと思ったのか。

■それにしても飲酒運転(運馬?)、今のご時世ならお役所はクビ。 従って、歌を詠んでガマンするか。
伏木の 気多神社に、この歌碑がある。


17-3955 土師道良
天平18年大8月7日・西暦746年8月31日

家持の館にて。

17-3955

あ〜、遅なってもうた。帰られんさかい、泊まってかんならん。

■と思う鈍感な酔客に対し、もう遅いから帰って欲しいと思う廻りの気持ち。 さてさて、酔っ払いには困ったものだ。この逆だと奥ゆかしいのだが。
「酒もまだ有るし、ゆっくりしていかれ。」「沢山沢山、充分よばれました。」と。
済みません、こんな解釈になって。 旧暦8月7日の月の入は、午後9時と言う。 そんな夜更けに、西側に二上山の月を見る場所は限られている。

■最近(平成13年2月26日)、三ヶ月(月齢3)を見て思った。 「夜は更けぬらし」を「夕暮れ」だと解釈すれば、 高度は高いにしろ、そう見えなくとも限らない、と思った。 次の日(月齢4)に、いつもの通勤コースから変えて、 伏木回りで、月を見続ける(18:00〜18:30)ことにした。 月の高度が高いので、二上山の麓であれば、 そう見えなくとも限らない、と思ったからである。
子供でも知っている二上山とは何処だろう。 城山(258.9M)・大師ヶ岳(253.6M)・摩頂山(251.0M)、 はたまた「万葉ライン」の鉢伏山(179.2M)なのか。 「月」とか「有明」とか出てくると、どうも地理とか方角が気になる。 当地では、月・太陽は東・南・西にしか見えない。

■史生(しよう)とは、家持の部下で記録を司る役、任期6年。 玉櫛笥(たまくしげ:浦島太郎の玉手箱みたいなもの。)、 容器の蓋と二上の「ふた」にかけている。


17-3956 秦八千嶋
天平18年・西暦746年

秦八千嶋の館にて。

17-3956

え〜い、何んしとんがい、早よう船、出さんがかい。

■奈呉の海とは「新湊海岸」を言う。 平成の大合併の今なら「射水海岸」かな。 今回は、家持を初めて自宅に招いたので、やや緊張している。 (私だって、娘の嫁ぎ先の婿さん、家族には気を使ってしまう。)
当時、奈呉には3,000人程の漁師がいたらしい。

■大目(だいさかん)とは、家持の部下で国司の四等官との事。


17-3959 大伴家持
天平18年小9月25日・西暦746年10月18日 29歳

弟の死を知る。

17-3959

そんなが分かっとっりゃ、ここの海でも見せたげっりゃ、良かったがに。

■弟とは大伴書持らしい。ショックだったと思う。

■有磯(ありそ)は荒磯だったのか。では、雨晴・阿尾が相応しい。 現在の島尾・窪海岸は砂浜だから。私の家も当時は砂州(さす)の上だったのであろう。

村上

■話は違うが、当時の家持は現在の私の家の前を通り、雀森の 八幡神社 へ参詣したのに違いない、と信じている。 近所の「むらかみばし」には家持の「鎮め森」伝説に因んだレリーフが施してある。


17-3970 大伴家持
天平19年大3月2日・西暦747年4月19日 30歳

17-3970

山桜を、一ぺんでもいいから、あんたと一緒に見られたらいいがに。

■掾大伴宿禰池主に対する返歌。このときの家持は調子が悪く、床に伏せっていたらしい。

二上青少年の家に副碑が有る。


17-3985 大伴家持
天平19年大3月30日・西暦747年5月17日 30歳

二上山の歌。

17-3985

二上山ちゃ、いい山やのう。小矢部川が流れとるし、
春でも秋でも、見とったら、何や知らんけど有り難た〜なってくるちゃ。
雨晴の波みたいもんで、この先、ず〜っと続くやろね。
誰んかも、そうで無いけ。

■慣れない北陸の寒さか、弟の死が祟ったのか、病状だった家持も、 この当たりから回復したようだ。内容に明るさが感じられる。

■小矢部川。今こそ庄川とは別々に流れているが、 明治33年から大正元年にかけ、200万の人工を掛け分流させたと言う。 従って当時は、現在より川幅が広く、水量も豊富だったと思う。
高岡市の万葉歴史館に歌碑が有る。


17-3986 大伴家持
天平19年大3月30日・西暦747年5月17日 30歳

17-3986

波、見とったら、何んやら昔の事ばっかし思うてしもうがいちゃ。

■何だかセンチな人ですね。

■渋谷の地名は住宅地図を見ていると、 太田・雨晴のあちこちにズタズタになって飛地となっている。 何ででしょうか、元は広域圏だったと思うのですが。


17-3987 大伴家持
天平19年大3月30日・西暦747年5月17日 30歳

二上山を思い出して。

17-3987

もうそろそろ、ホトトギスでも鳴かんがかのう。

■当地では有名な歌。
でも恥ずかしながら、私はホトトギスは良く知らない。 「てっ辺禿げたか」とか「特許許可局」とか鳴くらしい。 臼ヶ峰 では、「東京東京、特許許可局」と聞こえた。
この話を同僚にしたところ、 ウグイスだって最初から「ホー、ホケキョ」とは鳴かないと言う。

万葉小学校古府小学校二上山の像碑郷土資料館に、この歌碑が有る。 また近年、伏木万葉大橋にも建立された。


17-3988 大伴家持
天平19年大4月16日・西暦747年6月2日 30歳

夜中に、ホトトギスを聞いた。

17-3988

ちょっこし離れとっけど、やっとホトトギス鳴いとったぞ。

■よっぽこの人、ホトトギスが好きなのですね。
ホトトギスの声は、自分が足を運べば5月からでも聞こえる。 家持さんの自宅からでは、ちょっと遅れたかな。

■小鳥の鳴き声は、夜中には余り聞いたことが無い。 そして、ホトトギスは自分では、子育てをしないらしい。 だから、家持さんの聞いたホトトギスは、よっぽど遊び人なのか。


17-3989 大伴家持
天平19年大4月20日・西暦747年6月6日 30歳

八千嶋の館にて。

17-3989

や〜さん、誰んかも皆んな、寂うしくなるのう。

■どうやら、家持さんは5月2日以後、一旦、都へ戻るらしい。

■射水市(元:新湊市)に 放生津八幡宮という神社が有って、 家持が「九州から持って来た分霊」を祭っているそうだ。
10月1日〜2日には大祭が有り、1日は曳山祭り、2日に本祭が行われ、 射水市(元:新湊市)を挙げての大行事となる。


17-3991 大伴家持
天平19年大4月24日・西暦747年6月10日 30歳

十二町潟へ、遊びに行った。(ここは古江村に有る。)

17-3991

誰んかもと、雨晴や松田江浜を越えて、
上庄川へ遊んに行ったがいけど、
何ん面白なかったけで、布勢ちゅとこへ行ったがいちゃ。
舟で遊んどったら、鴨や花で面白かったちゃね。
初めてやったちゃ。また、行って来まいけ。

■宇波川とは何処だろうか。 当時の宇波は、日帰りコースでは遠すぎるし、阿尾の難所がある。 現在の上庄川なら納得できる。そこも当時は湖だったらしい。 この上庄川と仏生寺川の下流の湊川は、当時は合流しており、 氷見の江(湊川)と呼ばれていたらしい。 最近この名にちなんで、ユニークなデザインの「氷見の江大橋」が建設された。

■布勢の水海の南西岸に古江村が有ったと言う。 古江新 と言う地名や、私が世話をしている 古江神社は、これにあやかったらしい。
氷見市海浜植物園に、この長歌を紹介した 史蹟が有る。 また、水郷公園にも 史蹟・副碑が有る。


17-3992 大伴家持
天平19年大4月24日・西暦747年6月10日 30歳

そこで、一首。

17-3992

こっりゃ毎年、遊んに来んならんのう。

■万尾川・仏生寺川は元々、海水が混ざり合う汽水(きすい)で有る。 この流れを制御するため、昔の人は 窪の新川を造り、湊川と分流させた。

■近年には、私の近所に十二町潟排水機場 が施設され、この歌碑が有る。また、 水郷公園にも史蹟・副碑が有る。
近くの日宮神社にも最近、立派な歌碑を見付けた。


17-3993 大伴家持
天平19年大4月26日・西暦747年6月12日 30歳

また、十二町潟へ遊びに行った。

17-3993

藤ちゃ散っても〜とっけど、卯の花ちゃ盛りやぞ、と
ほととぎすが言うもんやさかい、また、遊んに行きたなって、
誰んかもと馬で小矢部川へ行ったが。
へたら、鳥りゃでかいとおったちゃ。
もう少っこし見とったかったれど、また雨晴へ行くがにしたが。
おくしい藻やったもんで、かかに持ってってやろう思たちゅが。
こんだ十二町潟に行くがにして、
誰んかも連れて、そっで、おら船、漕いどったが。
大浦へ行ったら、花こさ散っとたれど、でかいと鴨、おったが。
立ちっとたり、座っとったりして、どっだけ見とっても、飽んだもんやちゅが。
秋っきゃ紅葉、春りゃ花で、どっちでもいいちゃ。
こんながいして、景色、眺めとりゃ、すっきっとすっちゃね。
こんながいして、ずっと続こうがいね。

■内容がだんだんリアルになってきましたね。 この後「垂姫(たるひめ)の崎」の歌が出てきて、家持もだんだん土地に詳しくなってくる。
乎布(をふ)の崎は乎布の浦に通ずる、と思う。 「をふのうら」から「おおのうら」に、現在の大浦・耳浦のイメージがつながる。

■銘酒「藤波」は近所の池淵酒店で売っている。 どう言う訳か上撰より2級の方が美味い。(全国の酒造コンテストで4位の誉れ。) しかし、最近は儲かっていないらしい。やや高いからか。


17-3994 大伴池主
天平19年大4月26日・西暦747年6月12日

17-3994

そ〜やね、そんながなら、また見に行かんまいけ。

■先の家持の歌に同感している。

■掾(じょう)とは国司の三等官。家持に仕える真面目な部下らしい。


17-4000 大伴家持
天平19年大4月26日・西暦747年6月12日 30歳

立山の歌(この立山は新川郡にある。)

17-4000

辺鄙(へんぴ)なとこやれど越中ちゃ、どこ行っても、
山だらけ、川ちゃばやく流れとれども、
お上の地面やれど新川の立山ちゃ、
年中、いつんかも雪っきゃ積もっとって、
片貝川なんか、ぐるっと巻いとるみたいが。
そのおくしい川から、朝でも夜さるでも立っとる霧みたいがに、
おらの思いも、もう消えんちゃ。
いつんかも通うてみて、毎どしでも、離れとってでも見とって、
末代まで言われるように、まだ見とらん人にも言うたげんならん。
誰んかも噂、聞いてでも、名前、聞いてでも、珍しがられるように。

■ご存知「立山の賦」パートT。

■万葉歴史博物館の 屋上自然公園に、 万葉仮名の歌碑と書下しの副碑が有る。


17-4001 大伴家持
天平19年大4月26日・西暦747年6月12日 30歳

17-4001

立山の雪ちゃ、いつ見ても飽っきゃ来んの〜。

■運がよければ、富山県のどこからでも立山が見える。
しかし、氷見ではそれが海越しに見えるので、もっと神々しい気持ちになる。 本当か嘘かは知らないが、海越しに3,000M級の山が見える所は、世界で3ヶ所しか無いと言う。

■「とこなつ」とは、ハワイの事では無い。 まるで夏のような天候が続いた、と考えたい。 氷見では、特に2〜5月頃にチャンスが多いが。 そう言えば、高岡の老舗に「銘菓とこなつ」が有ったっけ。

■私の近所の浜に、この 木碑が有ったが、近年に撤去されてしまった。 しかし、富山市呉羽山の立派な歌碑や、 富山市新庄にも歌碑が有った。 近年では、伏木万葉大橋にも建立された。


17-4002 大伴家持
天平19年大4月27日・西暦747年6月13日 30歳

17-4002

片貝川のおくしい水みたいがに、ずっと通うて見とろかのう。

■かなり呉東の新川郡まで、彼は足を延ばしたらしい。 国府が有った伏木からは、自動車でもかなりの時間がかかると言うのに。 馬を使うにしろ通い続けるには、何処かで宿泊しなければならない。 従って多分、川の下流域で詠んだのだと思います。

■魚津市の 大徳寺川の瀬団地黒谷橋詰 に、この歌碑が建っていた。


17-4003 大伴家持
天平19年大4月27日・西暦747年6月13日 30歳

立山の歌

17-4003

朝日、出たら、太陽の光の後ろから、神ん様みたいがに見えて、
はんさおくしいぞ、立山ちゃ。
一杯こと雲、ずらかいて、空へとっ付くほど高いぞ、立山ちゃ。
冬でも夏でも、白い雪っきゃ積もっとる。
昔から有るもんやさかい、何んちゅう岩ちゃ古いもんやろの。
どっだけこさ、経っとろ〜がい。
立ちって見ても、座っとって見ても、不思議なもんやのう。
山、はんさ高いし、谷ゃ深いもんやさかい、川の流れちゃ、早いぞ。
そやさかい、朝、霧ゃ立つし、夜さっりゃ雲、出るがいぞ。
その雲や霧みたいもんで、思いちゅもんな消えんやろ。
その流れとる水の音みたいがに、いつ迄でも言うたらかんならん。
この川ん流れ、止まらんうっちゃ。

■ご存知「立山の賦」パートU。
前回の巻17-4000より、こっちの方を歌碑にすれば良かったのに。 私は「富山県民の歌」や「氷見市民憲章」のルーツだと思っている。

■「立山の 空にそびゆる 雄々しさに 習えとぞ思う 御代の姿も」とは、 かつての昭和天皇が富山県に賜わった御歌である。


17-4006 大伴家持
天平19年大4月30日・西暦747年6月16日 30歳

呼ばれて一旦、都に戻る事になった。

17-4006

二上山の栂(つが)の常緑みたいもんで、
朝ゆわ朝、夜さっりゃ夜さるで、何時んかも遊んどったもんや。
小矢部川へ行った際にや、あいの風やったもんやさかい、
波やひどいもんで、鳥や騒いどったの。
ガサワラやったもんで、舟もでかい音、出しとったの。
そんないい季節ながに、都に戻ってこい、言われた。
で、別れんならんがに、なったがいちゃ。
お前は大丈夫かも知らんけど、
山を越えていかんならん、おらの方は、寂しいこっちゃ。
もしもやぞ、もしお前が玉やったら、持って行こう思うちゃ。
ほんまに、名残惜しいこっちゃ。

■サラリーマンだったら、久々の本社への出張は、楽しい筈なのに。 二上山の別称で二波(ふたなみ)がある。 頂高273(ふたなみ)メートルと言う、地元では定番の冗談。

■私は毎日この二上山を見て通勤しているが、 山が二つ連なっているから二上山とは信じ難い。 城山と鉢伏山が連なって、二上山に見える典型的なポイント (巻17-3955)はそう多くは無いと思う。
二上山の万葉植物園に この冒頭部分の歌碑が有る。


17-4007 大伴家持
天平19年大4月30日・西暦747年6月16日 30歳

そこで、池主さんに。

17-4007

い〜さん、あんたが玉なら、一緒に持って行かれるがに。

■よっぽど、年上ながら部下の池主(大伴宿禰池主)さんとは、遠縁でもあり相性が合ったらしい。

■玉とか珠と言えば、王様が持つ石の装飾品である。
中国では、黄河文明以前の長江(揚子江)文明から用いられ、 どうして孔をあけたか、現在でも謎とされているらしい。


17-4008 大伴池主
天平19年小5月2日・西暦747年6月18日

上京に臨んだ家持の心触れ、自分の思いを返します。 そこで一首と二絶。

17-4008

奈良から離れとる、へんぴ(辺鄙)な所やれど、
あんたはんを何時んかも見とったさかい、あっかりしとったがに。
お偉いさん言うがには、お国の大事な仕事やちゅがで、
青い脚絆や手甲つけて、鳥みたいがに朝立ちするがけ。
残ったもんがさぶしいがか、先に旅に出たもんがさぶしがるがか、
あ〜やこ〜や思とっても、何〜んおもし無いもんで外に出てもうた。
卯の花咲いとる山中でホトトギスが鳴いとったもんで、オラも泣きたなった。
霧っりゃ風に吹かれるみたい気持ちやれど、口に出いて言う訳にもいかず。
倶利伽羅の神さんに、お供えして頼まんならん。
「あんたが無事で行かれますように。
そっで、ナデシコが盛りの内にでも、あんたに逢えますように」と。

■「砺波山」とは今の倶利伽羅峠であり、上京の際の北陸道の難所でした。 通過すべき「手向けの神」に捧げ物をすれば、旅人を守ってくれる神々らしいのです。

■例えてみよう。家持は業界最大の株式会社「奈良製粉」の富山営業所長。 しかし年一回、本社での営業実績報告に出席しなければならない。 当時の出張規定では、奈良まで10間と定めれている。 実績評価もさることながら、長旅は危険が伴うのだった。


17-4009 大伴池主
天平19年小5月2日・西暦747年6月18日

17-4009

頼んこっちゃ道の神ん様、ごっつお出っさかい、やうちを守って下はれ。

■前の賦(長歌)からの抄訳。玉鉾(たまぼこ)とは、道・里の枕詞らしい。 道の神…道祖神。村人や旅人を守ってくれる。ご存知の天狗さん「猿田彦神」かも。柳田にも手向(たむけ)神社が有る。

■池主さんは、本社採用で富山営業所の庶務係長なのだが、家持所長とは親戚筋なので懇意にしていたのだった。


17-4010 大伴池主
天平19年小5月2日・西暦747年6月18日

17-4010

やうちが撫子の花やったら、毎朝でも見られるがに。

■巻17-4008〜巻17-4010も家持さんを称える歌となっており、 倶梨伽羅公園に、この歌碑がある。

■ 家持さんは撫子が大好きだったらしく、自分の館にこの種を蒔くくらいだったと言う。 この後、家持さんは税帳使として京に向かったらしく、 歌も数ヶ月近くの空白が出来てしまいました。
その間に池主さんも、越中掾(じょう…富山営業所係長)から越前掾(福井営業所係長)に遷任されたらしいのでした。
「守(所長)→介(課長)→掾(係長)→目(主任)→史生(事務員)…国掌」


17-4011 大伴家持
天平19年小9月26日・西暦747年11月7日 30歳

逃げた鷹の、夢を見た。

17-4011

ここの役所は、越(こし)ちゅう、ひどい在郷(ざいご)ながいぜ。
辺鄙(へんぴ)なとこやもんやさかい、山や川だらけ、野は草だらけ。
夏、鮎の時期やったら、鵜飼が川のあっちこっち火とぼいて、
ひどい流れの川、昇って行くがいぜ。

秋になっちゅうと、鳥っりゃいっぱいおるちゅがで、
誰んかも呼ぼって、鷹狩しとったもんや。
おらも、げ尻尾が矢みたい大黒(おおぐろ)ちゅう鷹、持っとって、
銀の鈴、ひっ付けといた。
朝狩ゆは500、夕狩ゆは1,000羽の鳥、追い出いて、
そっで獲物、狙ろたら絶対、逃がさんだもんやちゃ。
こんな手離れも戻りも良い鷹ちゃ、大黒の他に、何んおっこっちゃ、
と、喜んどったが。
そんながにかかって、あの山田のじ〜ま(爺)の奴め、
おらに一言の断りも無しに、そっで雨、降る言うとるがにかかって、
鷹狩する言うて、おらの大黒を連れてっても〜た。

そしたら、「大門から二上山の方、逃げてってもうたが。」と、
戻って来て、咳き込んで言うたが。そやれど、
鷹、呼ぼるすべも分からんし、何んの呪いすりゃ良いがかも分からん。
はがやして、はがやしてならんだ。
もしか思うて、山のあっちこっちに網、張ったり番人、置いたりして、
宮に大鏡と御幣を並べて願、かけて待っとったが。

ある晩のこっちゃ。娘はんが夢に現れて言うがには、
「あんたが待っとる鷹ちゃ、松田江浜を一日中、飛んだらいて、
ツナシがおる湊川、田子の島、鴨だらけの古江に、
おとといも、きんのもおったよ。
早けりゃあと二日ほど、遅けりゃ七日もかからんやろね。
絶対、帰って来っさかい、はがやしがらんでも良いがいぜ。」
と、夢でそう言うたがいちゃ。

■鷹の飛んでいたコースから推定すると、私の家の上も飛んでいたに違いない。
鄙(ひな)、難しい漢字ですが、 氷見弁で「あんな辺鄙(へんぴ)なとこ」と言えば猿でも分かる。 五鄙(漢字源より)で県となり、現在の郡に相当する。 当時は射水郡・砺波郡・婦負郡・新川郡ぐらいだったのでしょうね。 ちなみに当時の氷見では、鯯(つなし)(コノシロ、コハダ)漁が行われていたと想像されます。

氷見市海浜植物園道の駅・海鮮館に、 この長歌を紹介した史蹟が有る。 また、 水郷公園にも、史蹟・副碑が有る。


17-4012 大伴家持
天平19年小9月26日・西暦747年11月7日 30歳

そこで短歌

17-4012

げ尻っ尾、矢みたいな鷹、連れて、このごろ大門ちゃ行っとらんのう。

■三嶋野とは何処だろう。 勝手に解釈し、小矢部川と庄川が入り組んでいた氾濫原の大門とした。

■やがて家持のお気に入りとなり、 巻18-4079では思い出となってしまう。


17-4013 大伴家持
天平19年小9月26日・西暦747年11月7日 30歳

17-4013

網張って、鷹、戻ってこんかのう、思〜とったら、夢に出てしも〜た。、

巻17-4011の歌から、解説は不要でしょう。


17-4014 大伴家持
天平19年9月(小)26日・西暦747年11月7日 30歳

17-4014

も〜ろく、しとったがいろ、山田の爺はん。そやさかい、探されんだがいろ。

■山田の爺さんとは、山田史君麻呂(やまだのふびときみまろ)らしい。

■耄碌(も〜ろく)は、氷見弁と思っていました。


17-4015 大伴家持
天平19年小9月26日・西暦747年11月7日 30歳

17-4015

はがやして、はがやして、ならんだがいちゃ。

■「須加の山」は「すか」を導く枕詞。「すかなし」は心楽しまないの意という。

■「須加の」は高岡市佐加野(さがの)に通じないだろうか。
と、思っていたところ、 東大寺墾田須加野庄の石碑が有った。


この鷹ちゃ、古江村で掴まいたが。
そりゃ見事なもんで、雉どもうまい事、掴まえるもんやちゃ。
そやれど、山田ちゅうもんが、
まだ調教も仕上がっておらんがに、狩りに出ても良い言うた。
そしたら、飛んでってもうて、鼠でも見せても、もう戻ってこんが。
なら言う事で、網、張っといて、祭壇作って神頼みやちゃ。

そしたら、夢ん中に娘さんが現れて、
「心配しられんな、すぐ捕まるちゃ。」と言うたがいちゃ。
嬉して嬉して、すぐ目、覚まいたが。で、さっきの歌、作ったが。


17-4016 高市連黒人(たけちのむらじくろひと)
年月不審

17-4016

この歌を伝誦したのは三国真人五百国(みくにのまひといほくに)である。

ススキさえ踏ん倒すほどでかい雪ながに、ここで泊らんならんがちゃ、厭なってくる。

■高市さんは、黒人家持時代より50年前の歌人で身分はマイナーだったらしい。 しかし、この歌が家持さんに選ばれたのは、よほど共感したのだろう

■なぜか峠茶屋交差点(富山市)の三叉路に、この歌碑があるが、 風化していてさっぱり読めない。 近くの案内板が頼りでした。 さて、富山市はもともと婦負(ねい)郡だったのか? そう言えば、当時の越中は四郡(射水郡、砺波郡、婦負郡、新川郡)しかなかったのだった。


17-4017 大伴家持
天平20年小1月29日・西暦748年3月7日 31歳

17-4017

あいの風、吹いたがかのう、釣り舟が波に隠れるほどやさかい。

■「あいの風」とは冬季に海から陸に向かう風、従って波が荒いと言う表現そのもの。 これに雷が加われば例の「ブリ起こし」である。 富山湾は鰤漁で活気づくのだ。
「あゆのかぜ」を東風と表現するとは、学者さんの感覚と思う。 なぜなら、氷見は東の風、伏木は北東の風、新湊は北の風なのに。 家持さんは、氷見びいき・氷見かぶれらしい。 ちなみに、「あいの風」の反対を「だしの風」と言う。 夏場の穏やかな海は、魚を富山湾から追い出すのか。

■奈呉の海は現在の新湊海岸か。 はたまた、奈呉の江は放生津潟(ほうじょうずがた)か。
近年は、中古自動車を求めるロシア人がたむろしており、 ロシア語の看板が目立ったものだ。ちなみに私の前勤務先では、 「ここは中古車展示場では、有りません。従業員の駐車場です。」 と、ロシア語の標識が立てられていました。 しかし、現在はロシア関税の影響なのだろう、廃業が目立っている。

■ 射水市(元:新湊市)の 放生津八幡宮 に、この歌碑が有る。 また、近年、 伏木万葉大橋 にも、この歌碑が設立された。

17-4018 大伴家持
天平20年小1月29日・西暦748年3月7日 31歳

17-4018

風っじや寒いがかのう、鶴っりゃ、ぎゃあぎゃあ鳴いとる。

■私の近所では鶴こそ見かけませんが、 今でも白鷺や白鳥が飛来してきます。 それにしても白鳥は、直近で見ると、さすがに大きいですね。
最近では、稲の刈り取りが終わった後、 白鳥の保護のため、田圃を焼いたり「暮れ起こし」を自粛しています。

■射水市(元:新湊市)の 大楽寺新湊小学校付近 に、この歌碑がある。


17-4020 大伴家持
天平20年小1月29日・西暦748年3月7日 31歳

17-4020

ここにおると、日や暮れるまで都や「か〜か」のこと忘れられんがいちゅが。

■信濃の浜とは現在の「しんきろうロード」だったのだろうか? 呉東の海岸は、富山湾の地形や海流からみて比較的に浜が少ないと思う。 従って、以西の越の潟・奈呉の江(放生津)辺りなのでは。

■魚津市の「懐かしの灯台塚」に、この 歌碑があった。


17-4021 大伴家持
天平20年・西暦748年 31歳

庄川の辺にて。

17-4021

葦附取っとった娘はんらっちゃの「赤いば」が、水に映つっておくしかった。

■中田の「いきものの里公園」で、県の天然記念物として保護されている「葦附」を撮影する事が出来た。 昔は射水市(大門町)西広上などと共に、広い範囲で自生していたという。
最近、利賀村でも大量に群生している事が分かったと言う。

■中田(高岡)のあしつき公園に歌碑が有る。


17-4022 大伴家持
 

婦負郡の神通川を渡る時に作った。

17-4022

神通川ちゃ、でかいもんやさかい、おらの馬の水撥ねて、着もんがベチャベチャになってもうた。

■「わたる瀬おほみ」とは、川幅が広大なため幾筋も分流して流れていることを言うらしい。

■婦中町鵜坂(富山市)の神通川の堤防沿いに歌碑が有る。


17-4023 大伴家持
 

鵜(う)を潜らせる人を見て作った。

17-4023

流れの速い神通川で、いっぱいことの役人が、かがり火たいて鵜飼しとった。

■鵜坂川とか売比川とは何処だろうか? あの越中おわら節で有名な井田川と神通川が合流するR41号線富山大橋付近だろうか? そこより下流は、川幅や水量が多くゆったりしていて「わたる瀬おほみ」とか「はやき瀬ごとに」の雰囲気は出ない。 やはり土川・熊野川が合流する鵜坂辺りか。 美空ひばりの歌ではないが、「川の流れのよ〜に」と時代とともに変化するだろう。

■婦中町鵜坂(富山市)の鵜坂神社の境内に、この歌碑が有る。


17-4024 大伴家持
 

新川郡の早月川を渡る時に作った。

17-4024

雪っきゃ解けたがかのう、水かさ増えて馬の腹まで来てしもうとる。

■呉東の河川は、穏やかな時と激しい流れの差が大きい。 「川では無い、これは滝だ!」とは、オランダ人の技師「ハニス・デ・レイケ」が語ったそうな。 片貝川・早月川・常願寺川・黒部川の順で、勾配が急激である。

■魚津市の白萩東部公民館前に、この歌碑が有る。


17-4025 大伴家持
天平20年・西暦748年 31歳

石川県の気多大社に行く時、途中の千里浜にて。

17-4025

臼ケ峰、越えたら千里浜やった。舟にでも乗りたなったな〜。

■おいおい、ここは布勢の湖では無く、日本海ですよ。
ところで、大地と海水は比熱が違うので、昼夜では風向きが変わるらしい。 荒れ狂う日本海とよく表現されるが、 やや陸風(氷見弁…だしの風)気味であれば、波は静かで海は鏡のようになる場合がある。 早朝に宿を出発し、千里浜に出たのだろう。 これならば素人でもボートが漕げる。 最近の海水浴場では、ボート遊びは見かけなくなってしまい、 サーフやスクーター遊びが多いようだが。

■志雄路越えは、古くからの街道。 粟原の駒繋桜 まで舟で行き、小久米・床鍋から臼ヶ峰を越え、志雄に向かったと言う。 臼ケ峯の頂上には「太子堂」が有り、「親鸞上人」の銅像への登り口の右に 歌碑が有る。 何度もキャンプやバーベキューに行っているが、気が付かなかった。
千里浜なぎさドライブウェイの終点広場や 途中の出浜に、この歌碑がある。 石川県の気多大社(気多神社)には歌碑は無いが、 案内板にはこの歌が紹介されている。


氷見弁で読む万葉集(巻17〜巻19)


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