氷見弁で読む万葉集(巻18)

巻18(4,032〜4,138)は、彼の絶頂期であった。


はじめに

■中央からの使者の案内も、自ら引き受けるほど詳しくなってきた。 行く先々での感動と再発見は、歌も次第に叙事から叙情へと移って行く。 また、使命である東大寺建立のための徴税にも励み、 巡行範囲や交際範囲も広くなった。 しかも、これ迄の単なる年貢の取立て屋から、 天候を気にするなど、人々の心にも迫っていった。

史跡

■彼の最大の感激は、例の「海行かば」であった。 大伴氏・佐伯氏の代々からの忠節が認められ、 そして、従五位下から従五位上へと昇進したのであった。 しかし、時代は国家神道から国家仏教へと次第に変わりつつあった。


18-4032 田辺福麻呂
天平20年小3月23日・西暦748年4月29日

左大臣橘家の使者、 田辺福麻呂を家持の館に招いた。

18-4032

誰っか舟、貸してくれんかのう。波、どんなもんか見てくっさかい。

■家持の館は高台にあるので、海が一望できたのだろう。

■造酒指令史(さけのつかさのさくわん)は宮内省での醸造を司る。 令史はその三等官。


18-4033 田辺福麻呂
天平20年小3月23日・西暦748年4月29日

18-4033

波で何時んかも打っち上げられる貝みたいがに、年っしゃ明けても〜たのう。

■繰り返す波をずっと見ていると、私にも、この気持ちは良く分かる。


18-4034 田辺福麻呂
天平20年小3月23日・西暦748年4月29日

18-4034

波間の魚を狙うて、鶴っりゃギャアギャア鳴いとる。

■トラクターで田圃を起こすと、その列に、わっと鳥が集まってくる。 そんなイメージだろうか。

■氷見漁港でも、鴎(かもめ)かウミネコかは知らないが、 ギャアギャア騒いでいる時が有る。


18-4035 田辺福麻呂
天平20年小3月23日・西暦748年4月29日

18-4035

ほととぎすよ、菖蒲だらけの時期になったら、来て鳴いてくれま。

■いずれが菖蒲(あやめ) か、かきつばた。私にはアヤメとショウブの区別が出来ない。


18-4036 田辺福麻呂
天平20年小3月24日・西暦748年4月30日

明日、二人で十二町潟を遊覧しようね。

18-4036

そんな見せたがっとる十二町潟ちゃ、どんなとこけ。

■家持さんは、大分、風を吹かしたようだが、 田辺さんは、たいして期待していない様子だ。


18-4037 大伴家持
天平20年小3月24日・西暦748年4月30日 31歳

18-4037

大浦ちゃあんた、一日中、見とっても飽っきやこんちゃ。

■と、言う事で、ダメを押している。


18-4038 田辺福麻呂
天平20年小3月24日・西暦748年4月30日

18-4038

早よう夜、明けんかのう。早よう行って遊んでこまいけ。

田辺さんも大分、乗ってきたようだ。 でも外海(そとうみ)と勘違いしている?

■玉櫛笥(たまくしげ) とは、「明けむ」の枕詞。


18-4039 田辺福麻呂
天平20年小3月24日・西暦748年4月30日

18-4039

話ばっかしで、まだ行っとらん。見んとって都ちゃ帰えれんちゃのう。

■この人、この時点では、全く信用していないが。


18-4040 田辺福麻呂
天平20年小3月24日・西暦748年4月30日

18-4040

もし、行かれたら、都のもんに言うたろう。

■家持さん、酒の勢いで 田辺さんを巻き込んだ。

■「ももしき」はステテコでは無い。沢山の石を敷いた宮、の意味。


18-4041 田辺福麻呂
天平20年小3月24日・西暦748年4月30日

18-4041

梅がおくしい、園ちゅうとこにも行ってこまいけ。

■園とは庭園なのか。私は地名の氷見市園(その)と考えたい。
でも梅の花って、もう遅いんじゃないの。


18-4042 田辺福麻呂
天平20年小3月24日・西暦748年4月30日

18-4042

藤の時期やから、ほととぎすも鳴くやろう。

■そうですね。今頃から鳴きます。
田辺さん、連荘に歌が出てくる、相当の人と見た。

布勢の円山でも紹介されている。


18-4043 大伴家持
天平20年小3月24日・西暦748年4月30日 31歳

18-4043

そやれど、鳴かんとって、藤をバッチャガスだけかも知らんぞ。

田辺さんが余りエスカレートするもので、家持、ちょっと牽制か。

■布施の円山(まるやま) 御影社の隣に、この 歌碑が有る。 私の小学生時代では、ここは秋の遠足コースだった。
また、十二町・矢崎 稲荷社の境内に、この 歌碑が有るが、 「あすの日の」が「ほととぎす」になっている。 これは(一に頭に云はく「ほととぎす」)の珍しい例である。


18-4044 大伴家持
天平20年小3月25日・西暦748年5月1日 31歳

当日の道中、馬の上にて二首

18-4044

ここまで来たがなら、誰っか早よう舟で迎えにこんかのう。

■何時もどの当たりから、舟に乗り換えるのだろうか。太田・島尾・柳田からなのか。


18-4045 大伴家持
天平20年小3月25日・西暦748年5月1日 31歳

18-4045

あの舟、そうでないがけ。

■ようやく、迎えが来たらしい。あれっ、女の人が乗っているよ。


18-4046 田辺福麻呂
天平20年小3月25日・西暦748年5月1日

水海で遊覧した。

18-4046

耳浦(みみうら)ちゃ、どっだけ見とっても飽っきゃこんね。

■垂姫の崎とは、どこだろうか。園と大浦の間の岬だろうか。
私が子供の時は、自宅の近くからでも田圃越しに見えた、 あの見事な「園の軍艦山」だろうか。確かに神さぶっていた。 現在は、かなり削られてしまって、住宅だらけで目立たないが。

■氷見に 垂姫神社が有る。しかし、阿尾・薮田が垂姫の崎とは信じたく無い。 そこは「ほしのふるまち」、また別の伝説がある。


18-4047 遊行女婦土師
天平20年小3月25日・西暦748年5月1日

18-4047

今日、ゆっくっと遊んでかれか。わしらちも覚えとっさかい。

■さすが高級コンパニオン。 「何なら、今晩お相手しましょうか?」をこんな歌にして誘っている。
家持との初めて(次回は 巻18-4067) の出会い。コンパニオンは、 池主さんからの引き継ぎで、 久米さんが手配したのでは。いや、実は氷見の 安努(あぬ)さんかも。

■今、氷見には 古墳が多く発見されている。 遊行女婦土師 土師(はにし)といえば古墳に埋める埴輪を作る人らしいが、 土葬が流行しなくなってからは、セレモニー・センターに商売替えしたのだろうか。 職を失った土師の末裔はコンパニオンなのか。


18-4048 大伴家持
天平20年小3月25日・西暦748年5月1日 31歳

18-4048

そやれど、家(うち)の事も、忘れられんがいちゃ。

土師さんからの誘い( 巻18-4047)に、 こんな歌で返してしまった。不粋な方ですね、私ならホイホイと。

■都に残した妻や妹の事を、思い出したのであろうか。


18-4049 田辺福麻呂
天平20年小3月25日・西暦748年5月1日

18-4049

ダラにしとったけど、大浦ちゃ、どっだけ見とっても飽っきゃこんね。

田辺さん、たかをくくっていたが、大分、気に入ったらしい。


18-4050 久米広縄
天平20年小3月25日・西暦748年5月1日

18-4050

ちゃんと鳴かにゃ、言うとったがに、何んやして鳴かんがけ。

久米さんは、池主さんの後任。 天平19年5月から20年3月迄、越中掾を勤めた。

■せっかく招待客や上司がきているのに、と伝わってくる。


18-4051 大伴家持
天平20年小3月25日・西暦748年5月1日 31歳

18-4051

木(こ)の陰に、ほととぎすでもおって、鳴きゃ良いがにかかって。

■上田子まで湖は続いたのだろうか。従って「多胡の崎」は下田子・上泉か。

■上田子のバス停近くに、この 歌碑が有る。最近、上泉の ヴィラージュ泉の杜にも新しく歌碑が出来た。


18-4066 大伴家持
天平20年大4月1日・西暦748年5月6日 31歳

久米広縄の館にて。歌四首。

18-4066

ほととぎす、ウツギ、まだ蕾やれど、早よ来て鳴かれま。

■卯の花---おから料理、てな訳ないか。 空木(うつぎ)の花の総称だそうです。
「花が白けりゃ、何でも良い」と言う人がいました。 「卯の花 AND ほととぎす」は万葉集には沢山、有るそうです。

■卯の花の匂う垣根に、ほととぎす早やも来啼きて、 しのび音もらす、夏は来ぬ。(小学唱歌)
卯の花の匂う垣根に---この唱歌はウソッパチだ、と言う人がいました。 卯の花の匂を嗅いだ人はいますか。


18-4067 遊行女婦土師
天平20年大4月1日・西暦748年5月6日

18-4067
二上山に隠れとらんと、ほととぎす、はよう鳴いたって下っしゃい。

は〜ちゃん、前回は舟遊び (巻18-4047)だったけど、今度はお座敷サービスですね。

■彼女は、たった2回しか登場していないけど、印象的ですね。


18-4068 大伴家持
天平20年大4月1日・西暦748年5月6日 31歳

明日は立夏。

18-4068

夜明しやぞ、飲んまいけ。ほととぎす、あした、絶対、鳴くちゃ。

■コンパニオンが居ると、家持さんも調子が出て来ましたね。 は〜ちゃんも、付き合ったのかな。

■今日、居酒屋でも料亭でも、小鳥の鳴き声が聞こえるだろうか。
自宅では、早朝からスズメの鳴き声ばっかりですが、 晩酌時間はひっそりです。昔は、風流だったのですね。


18-4069 能登臣乙美
天平20年大4月1日・西暦748年5月6日

羽咋の擬主帳(ぎしゅちょう)が作った。

18-4069

あしたから聞こえるちが。一晩ぐらい我慢、出来んがけ。

乙美(おとみ)さんは、大入杵(おおいりき)命の末裔で、 能登の豪族だそうです。

■「擬主帳」は主帳(郡の四等官)の補欠で、まだ郡司としての辞令は降りていない。 当時、能登は越中と合併していたのですね。


18-4079 大伴家持
天平21年大3月16日・西暦749年4月24日 32歳

18-4079

三嶋野、行ったら霞すんどった。昨んのも今日も雪、降っとるがにかかって。

■氷見ではないが私の通勤途上なので、敢えて載せた。 今時、4月(新暦)に雪が降ることはマレだと思う。 だから感動したのでは。

■大門町の 藤巻神明宮大門中学校に歌碑が有る。
ここは巻17-4012以来の思い出の地となった。


18-4085 大伴家持
天平感宝元年小5月5日・西暦749年5月29日 32歳

東大寺の僧、平栄さん達を接待した時の歌。

18-4093

明日(あした)から、関所の番人を増やすさかい、見とって下っしゃい。

■この坊さん達は、開墾の様子を視察に来たのだった。 このころ東大寺では大仏さんの建立工事中であり、 進行に影響するので、年貢米を気にしていたのだろう。 「焼大刀」は焼いた太刀を研ぐイメージから砺波の「と」にかかる枕詞なので、 訳には含まれていない。

■小矢部市に倶梨伽羅越えの関所が有ったと言うので、 石坂蓮沼に、この歌碑がある。


18-4093 大伴家持
天平感宝元年小5月10日・西暦749年6月3日 32歳

阿尾で作った。

18-4093

波やだんだん、でかなった。あいの風、ひどなったからやろ。

■「あいの風」で海が荒れるには、阿尾では東風である。 富山県はどこでも「あいの風」は東風ではない。 海から陸に吹く風は、呉西では北東・北と場所によりけり。 呉東では北西・西となる筈であろう。 ちなみに、地元では「あいの風」の反対を「だしの風」と言う。

■天平21年:天平感宝元年:天平勝宝元年と、くるくる年号が変わったらしい。
阿尾城址の 榊葉乎布神社の参道に、この 歌碑が有る。


18-4094 大伴家持
天平感宝元年小5月・西暦749年6月 32歳

陸奥の国から、金がでた。

18-4094

ヨシだらけで、稲に丁度のこの国を、
てんぞこ(天竺)からおい出た天皇はんちゃ、
ずっとお日さんの神様として、治めて来とったちゅがいね。ずっと。
山も川もはんさ、でっかいさかい、
上がり物んちゃ、数えきれんだろがいね。

そやれども、天皇はんちゃ、
誰んかもに言うて、こんだ(今度)、良い仕事、始めたもんやさかい、
「金でも、いっぱいこと有りゃ良いがに。」
と、悩んどったら、東の国やれど、陸奥の小田ちゅう山に、
「金あったぞ!」言うて来たもん、おったさかい、あっかりして、
「誰んかも神さんも、ご先祖はんも助けてくれて、
昔もそうやったれど、こんだ(今度)また、見つかったちゅう事は、
この国ちゃ、何〜ん、邪魔ないちゃ。」
と、神様はんの思うた通りになったり、
家来らっちゃも、誰んかも言うこと聞くがになって、
また、とっしょり(年寄)も、めろ(女郎)も、ねねども(共)も
「誰んかも、思た通りにしたげるぞ。」
と、物をやったり、位を上げたったりしたさかい、
「こりゃ何んちゅう良い事、しとってやの〜。」
と、喜こんどったがいぜ。

おらっちゃの大伴やけど、先祖の神様はんの名前ちゃ、
「大来目主」言うて、昔からの天皇はんの家来やったがいぜ。
「海いきゃ水ん中で死んでも、山いきゃ草ん中でも死んでも、
何のせ天皇はんの側で、ごすむくがいぞ。後ども、絶対見んがやぞ。」
と、言うて、
「さむらいの名前を、絶対汚されんがいぞ。」
と、昔から聞かされとったが。
そんな先祖の末裔ながいちゃ、大伴と佐伯ちゅうもんは。
先祖はんから
「お前らっちゃ、先祖の名前を絶やさんと、天皇はんに仕えるがいぞ。」
と言うて聞かされて来た末裔ながいちゃ。
弓もって、刀さげて
「朝も夜さるも、門の守りするもんな、俺らっちゃの他に誰おっこっちゃ。」
と、益々、いきっても〜がいぜ。

天皇はんが、詔を上げたちゅう事を聞いたもんやさい、嬉してならんだ。

■国歌「君が代」にせまる、例の「海行かば」です。 氷見の右翼の兄ちゃんが読んだら、涙する名訳かも。

■天平21年2月22日、陸奥国守百済王敬福より黄金が献上され、 同年4月1日、聖武天皇は東大寺に行幸して黄金産出を大仏の前に報告したと言う。 家持は、家訓「海行かば」のお陰で、同日、佐伯宿禰毛人(えみし)と共に従五位として昇進したらしい。 この長歌は、その時に出された詔書を祝賀したものだそうです。 「大来目主」は、「偉大なる久米部の統帥者」の意味で、 天忍日命(あめのおしひのみこと)以下、大伴氏の遠祖らしい。

■金に水銀を加え熱すると柔らかな銀色のアマルガムとなる。 これを大仏に塗りつけた後、表面を熱すると水銀だけがが空気中に飛ばされ、 その結果、鮮やかな金色の大仏となるのであった。 しかし、実に恐ろしい作業であって、言わば水俣病の元祖なのであろう。

■伏木の 喜笛庵勝興寺では、 これを抜粋した「海行かば」の歌碑が有る。


18-4113 大伴家持
天平感宝元年閏5月26日・西暦749年7月19日 32歳

庭中の花を見て、歌を一首作った。

18-4113

役目やさかい行ってこい言われて、来たがいけど、
こんな雪だらけの所で、はや5年も経ってもうた。
かかの腕枕もなし、紐も絞めたまんま独(ひと)っで寝とっても、何〜も面白ない。
そやさかい、ナデシコを蒔いてみたり、
山からユリの花でも取ってきて、植えてみたりしとんがや。
で、そらっちゃを庭で見とったら、
「まっでナデシコみたいおらかか、何時か逢うがいぞ。」と。
そんながでも思うとらな、こんな辺鄙(へんぴ)なところで何〜ん居られっこっちゃ。

■花妻は離(はな)れ妻、百合は後(ゆり)に掛かっていると言う。 単身赴任とは、やるせない事なのですね。

■最近(平成17年7月)、歴史の道「臼ヶ峰往来」日名田の登り口に、 この歌碑が建立された。 私には、何でこの歌が選ばれたのか分らないが。


18-4124 大伴家持
天平感宝元年大6月4日・西暦749年7月25日 32歳

待望の雨が降った。

18-4124

雨、降るが待っとったがいぜ。こっで、この秋っきゃ大丈夫やちゃ。

■この年の5月から、ひどい日照りだったという。 そうなると農民は餓死寸前。 税金の取り立てどころか、 言挙げ(祈願・祈年)でもしないと中央から馬鹿にされる。 だから自分も農民も、よっぽど嬉しかっただろう。

■諏訪野(加納)の 上庄川左岸排水機場に、この歌碑が有る。


18-4136 大伴家持
天平勝宝2年大正月2日・西暦750年2月12日 33歳

新年の宴会をした時

18-4136

宿り木、採って来て、髪んの毛に挿いたら、長生きするがいと。

■家持は管内の豪族を呼び、定例の新年宴会を開いた。 現在で言う「賀詞交換会」である。
「今年も良しなに。」「お主も悪じゃのう、越後屋(?)」 「そういう代官こそ。」「ふっふっふ。」と頼んだ後、宴たけなわとなる。 「家持っあん、その頭ちゃ何んけ?」と、飲んだ勢いで部下が尋ねたのだろうか。
太宰府の長官である帥老(そちのおきな)大伴旅人さんの頃(天平2年1月13日)は、 梅の花(巻5-817,821,833,836,840,843)をかざして喜んでいたという。 でも「千年寿くとそ」と迄は言っていない。宴会サービスは親譲りなんですね。

■伏木古国府の 勝興寺(ふるこはん)に、史跡表示碑が有り、 裏側にこの歌が刻まれている。 ちなみに、氷見には「寄生(ほよ)の会」という邦楽のグループがある。


18-4138 大伴家持
天平勝宝2年小2月18日・西暦750年4月3日 33歳

墾田の検察のため、多治比部北里の家に宿った。
しかし雨なので、出発出来なかった。

18-4138

雨降ったさかい、ここに居るちゅうこと、かかに良〜がに言〜てくれたかのう。

■和田(高岡)の荊波(うばら)神社に、 歌碑が有る。 また、小矢部市臼谷の 八幡宮も薮並・荊波(やぶなみ)を名乗っており、同様の 歌碑が有る。

■その後、砺波市池原の 荊波神社を訪ねたが、そこにも 歌碑があった どっちが元祖なのだろうか。


氷見弁で読む万葉集(巻17〜巻19)


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