氷見弁で読む万葉集(巻19)

巻19(4,139〜4,292)は、思い出多い越中との別かれ。


はじめに

■家持が理想とする美の世界へと進み、優れた作品が連発する。 文芸意識が最も高揚した時期であった。 やがて、小納言として順調に昇進した家持は、 大帳使を兼ね、一旦、奈良へ戻ることになる。 しかし、帰り着くと、 橘諸兄(たちばなのもろえ)が昔日の力を無くした現実を知る。 越中滞在五年間のうち、都の様子は大きく変わったのである。

史跡

■当時、婚姻関係を結びながらも、互いのライバルであった蘇我・物部の二氏であったが、 新しく仏像を賜り熱心に礼拝した蘇我氏と、 昔からの神祇崇拝を重んじてきた物部氏とは、 お互いに思想が相容れ無いため、有名な蘇我・物部戦争へと発展する。 NHK風に言えば「その時、歴史は動いた。」のである。 仏教派の聖徳太子は勝ち組、神道派の大伴氏は負け組となってしまった。 そして、大伴氏はキャリア組から外れてしまう。


19-4139 大伴家持
天平勝宝2年小3月1日・西暦750年4月15日 33歳

桃李(すもも)の花を眺めて作った。

19-4139

庭の桃、見とったら、おく(美)しいもんやさかい、
そこに娘はんでも、お(居)るがみたいやった。

■すもももももももものうち。
李の花は桜の様に白っぽいので、紅(くれない)と言えば桃の花か。
梅や桃の花は桜より早く咲く。当地では、この時期は桜も散っている。 従って、山添の、かなり遅咲きの桃とみた。

■暗い気持ちでは、こんな絵になる様な歌は作れない。
家持さん、よほど機嫌が良かったのかも。
伏木小学校光暁寺に、この歌碑がある。


19-4142 大伴家持
天平勝宝2年小3月2日・西暦750年4月16日 33歳

黛(まゆずみ)形の柳を折って見た。

19-4142

柳を見とったら、都の通りを思い出いた。

■高岡の新保氏宅に歌碑が有る。


19-4143 大伴家持
天平勝宝2年小3月2日・西暦750年4月16日 33歳

かたかごの花を、よぢ採った。

19-4143

娘さんらっちゃおった井戸端に、かたかごの花、あったがいちゃ。

■国分(こくぶ)という地名が有るが、 国分寺(天平勝宝8年12月:756年)は大分、後だろう。 当時の寺といえば、国府寺か。 家持の官舎は伏木古国府 474番地( 伏木測候所)。 役所は、伏木古国府 770番地( 勝興寺)。 寺井は、ご存知「ふるこはん」(浄土真宗)の境内外れ。

■当地では有名な歌。
勝興寺伏木小学校JR高岡駅前二上青少年の家 に、この歌碑・副碑が有る。
私も、かたかごの花を栽培してみたが、冬が越せず何年も失敗している。 誰か教えて下さい。
ところで、普段、何気無く使っていますが、攀(よ)ぢるとは難しい漢字ですね。

■ところが、地元の新聞(北日本新聞・平成23年7月17日付)に新解釈が発表された。 従来の解釈では、
「たくさんの少女たちが入り乱れて水を汲んでいる寺井のほとりに群がり咲いているカタカゴの花…水を汲んでいる」
となっていたが、新解釈では、
「たくさんの少女たちが寺の井戸のほとりに咲くカタカゴの花を騒ぎながら摘んでいる…花を摘んでいる」
ではないかと言う。(高岡万葉歴史館総括研究員・新谷秀夫氏) 理由は万葉仮名の誤写(手+邑)らしい。 (シフトJISでは表現できないので説明出来ません。)

■私のそっけない氷見弁の解釈の方が、新解釈に近かったのでほっとしています。


19-4146 大伴家持
天平勝宝2年小3月2日・西暦750年4月16日 33歳

夜中に、千鳥の鳴く声を聞いた。

19-4146

夜中に目覚まいたら川瀬ながのう、可愛さげに千鳥の声や聞こえた。

■昔は水辺に集まる多くの鳥を総称して、千鳥といっていたようだ。
立てばパチンコ、座れば麻雀、歩く姿は千鳥足。

■高岡の新保氏宅に歌碑が有る。


19-4150 大伴家持
天平勝宝2年小3月2日・西暦750年4月16日 33歳

朝早く、船人の唄が聞こえた。

19-4150

朝、目、覚まいたら、小矢部川から船乗の唄、聞こえたがいちゃ。

■唄とは民謡との事。 唄とは、歌と違って仏教用語から来たものらしい。 「正信偈」の偈であり、リズムに合わせて唱えるものらしい。

伏木測候所の史跡の裏や 能町小学校に、この歌が刻まれている。 また近年、伏木万葉大橋にも建立された。


19-4151 大伴家持
天平勝宝2年小3月3日・西暦750年4月17日 33歳

家持の館で宴会した時の歌

19-4151

前々から目付けといた桜やれど、こんな良いがに開いたちゃ思わんだ。

■当地の山桜は、公園の「吉野桜」より約1〜2週間遅れての満開となる。 家持さんは二上山の頂上付近において、かねてより目ぼしを立てていたに違いない。 丁度、上手い具合に間に合ったので、酒の肴となったのだろう。

■最近、高岡市の万葉歴史館に、この歌碑を見付けた。


19-4154 大伴家持
天平勝宝2年小3月8日・西暦750年4月22日 33歳

白い大鷹を詠んだ。

19-4154

はんさ、ひどい山、越えて来て長らと、ここに住んどるがいちゃ。
都もここも、何ん変わらん筈ながに、
話しするもん、遊んもん、何んおらんもんやさかい、
寂ぶしなったがいちゃ。
そやさかい、秋になりゃ萩だらけの石瀬に、馬で行って、
鳥、飛ばいて、銀の鈴、ひっつけた鷹で掴まえさいたりして、
そんながを見て、喜んどったがいちゃ。
小屋に止まりをひっつけ、そこで飼ことるおらの鷹ちゃ、
真っ白な斑ながいぜ。

■石瀬(いわせ)とは、小矢部川と庄川の氾濫原だろうか。 (巻19-4249) また、大門の三島も氾濫原と信じたい。
富山市の岩瀬(いわせ)は海岸の近くであり、萩がイメージできない。 また、遠すぎる。神通川は馬で渡れたのか、と思ってしまう。

■毎日、国道8号で氷見から新湊へ通勤しているが、 石瀬(いしぜ)から高新大橋にかけては、何時も混んでいる。 どうにかならないものかと思っていたら、近年、高架橋の完成により大分、楽になったらしい。


19-4155 大伴家持
天平勝宝2年小3月8日・西暦750年4月22日 33歳

19-4155

矢の格好した、げ尻尾と、真っ白な斑の鷹を飼うて、 眺めとるちゅがも、良いもんやのう。

■家持は余り地元の人と交際が無かったのでしょうか。 この手の話しは、何度も聞いた。


19-4156 大伴家持
天平勝宝2年小3月8日・西暦750年4月22日 33歳

鵜(う)を潜らせた。

19-4156

一年経って、また春になったが。山いや花だらけ。
その山の渕の泉川ちゃ、鮎、でかいとおるがいちゃ。
おら、鵜飼つれて、かがり燃やいて川、昇っとったが。
そいたら、かかにもろて着とった服が、
べちゃべちゃになって、濡れてもうたがいちゃ。

当時の地図 ■辟田川とはどこだろう、諸説ぷんぷん。私は現在の泉川と思う。
辟田(さきだ)から西田(さいだ)が連想できる。 当時は二上山からの水が西田川として、西田・宮田と流れていたのではないか。 氷見の地形から見ると、急流の部類である。現在ではその面影は無いが。 (地図参照:右下部分に注目して下さい。)
その後、その豊富な水を利用するため、溜池として堰き止め水田に供給したのでは。 現在の地図を見ると溜池が沢山、連なっているのでそう思った。 また、この近くの地名には、「田」が多い。 西田(斎田)・上田子・下田子・宮田・堀田・柳田・太田など。

■辟(ヘキ・さける)とは、君主の他、避と同意らしい。 でも、辟田は「田圃を開く」と解釈すると、個人的に納得できる。


19-4157 大伴家持
天平勝宝2年小3月8日・西暦750年4月22日 33歳

19-4157

赤い服がべちゃべちゃになっても良いけで、 また泉川に来まいけ。

■赤い衣とは、これこそ「はいから」さんですね

■眷(ケン・かえりみる)とは、見かけない漢字ですね。


19-4158 大伴家持
天平勝宝2年小3月8日・西暦750年4月22日 33歳

19-4158

毎年、この時期になったら、泉川に来て、 鵜、潜らがいて、鮎、掴かましに、行くまいけ。

■私の母校の西條中学校の横に、この泉川が流れていた。 小川のわりには、当時の水はきれいだった。 この歌は、もっと上流であろう。

■と思っていたら、小矢部市に 巻19-4156〜巻19-4158 の歌碑が有るではないか。 ここでは辟田川は子撫川(小矢部川の支流)と主張しているみたいだ。
残念、先を越されたか。しかし、気を取り直して考えてみた。 鵜(う)は海(うみう)か湖(かわう)だろう。 子撫川は山奥の渓流だよ。そんな所に効率の悪い鵜飼なんてすると思うか。 鮎ではなくヤマメか岩魚だろうが、と。
話は脱線するが、鵜は小魚ならなんでも飲み込むらしい。


19-4159 大伴家持
天平勝宝2年小3月9日・西暦750年4月23日 33歳

貸付けの取調べのため、古江に行こうとした途中、
雨晴を過ぎた所の岩に、つままの木を見た。

19-4159

つままの木を見とったら、ずっと根っこ、伸ばいとるもんで、
こっりや、大分、古いもんやな〜思た。

■都万麻(つまま)は氷見の 博物館 の前にも有り、氷見では あちこち に生えており、椿・ユリ等と共に氷見市の指定植物となっている。
田子浦藤波神社 にも都万麻の巨木が二本、有るらしい。

雨晴観光駐車場岩崎つまま公園二上青少年の家に歌碑・副碑が有る。


19-4177 大伴家持
天平勝宝2年大4月3日・西暦750年5月16日 33歳

大伴池主に贈った。懐かしい彼を思って一首と短歌

19-4177

あんたと遊んどって 朝になりゃ外に出て
暗なりゃ振り向いて 仲良らと見とったあの山
峰ゆわ霞んどって 谷やゆは 椿、咲いとった。
春っりゃ過んだら ホトトギス、鳴いとる
そやれど一人で聞いとっても寂(さぶ)しいもんや。お前と俺(おら)を挟んどる
砺波の山を 飛ん越えてって 夜、明りゃ 松の枝にでも
暗なりゃ 月に向こうて ほいて、アヤメ草を玉に通す月になるまで
鳴きさくって 寝られんように 悩ませるこっちゃ。

■訳の分からない訳になってしまった。 ホトトギスを共通のキーワードとして、池主さんとの思い出を語っている。

■大伴池主さんは、福井営業所に転勤してしまった。 富山営業所では掾(じょう…係長)だったが、福井営業所では判官(はんがん…同じ係長)と呼ばれている。 階級は同じでも、職種が違うのだろうか。

19-4178 大伴家持
天平勝宝2年大4月3日・西暦750年5月16日 33歳

19-4178

一人で聞いとっても寂(さぶ)しいもんや。丹生(にふ)の山でも行って鳴いてくれ。

■巻19-4177の抄訳。丹生(にふ)の山とは福井県丹生郡(にゅうぐん)か。 丹生とか丹生神社は各地にあるが、鉄丹(ベンガラ…朱色)の産地らしい。 そう言えば、越中富山の反魂丹とか、仁丹とか赤い丸薬には丹(たん)が付いている。


19-4179 大伴家持
天平勝宝2年大4月3日・西暦750年5月16日 33歳

19-4179

ほととぎす 鳴きさくって 彼(やうち)を 眠させんといてやれ

■これも巻19-4177の抄訳。 小矢部市の源平ライン沿いの砺波山には、これら 巻19-4177〜巻19-4179 の歌碑が有る。


19-4187 大伴家持
天平勝宝2年大4月6日・西暦750年5月19日 33歳

十二町潟に行った。

19-4187

誰んかもと、何〜ん、おもしなかったがいけで、
景色でも見てこまいか、ちゅがで、十二町潟で船で遊んどったが。
大浦、行ったら、霞、かかっとったし、
耳浦、行ったら、藤、咲いとったし、浜に波、立っとったが。
そんな波みたいがに、ずっと思いが続くがいちゃ。
そっりゃれど、ここは、何んちゅう、おくしいのお。
一日で、終わらんちゃ。
こうやって、春、花、咲いとっ時、秋、葉っぱ、黄いろ〜なっ時も、
ずっと見に来んならんちゃ、この十二町潟。

■垂姫とはどこだろう、勝手に「耳浦」とした。 氷見には垂姫神社が有るが、単に名前を借用したらしい。

湖光神社に、この抜粋の 歌碑がある。


19-4188 大伴家持
天平勝宝2年大4月6日・西暦750年5月19日 33歳

19-4188

藤っじゃ咲いとっ時、こうやって船で、毎年、見に来んならんの〜。

■近所に池淵酒店が有るが、清酒「藤波」の二級酒が美味しい。


19-4191 大伴家持
天平勝宝2年大4月9日・西暦750年5月22日 33歳

19-4191

鮎、とったがなら、ヒレでもくれっこっちゃ、気あるがなら。

二上青少年の家に副碑が有る。


19-4192 大伴家持
天平勝宝2年大4月9日・西暦750年5月22日 33歳

霍公鳥と藤の花を詠んだ。

19-4192

桃みたい紅い色の顔しとって、
柳みたい細い眉い毛して笑ろて、朝のそんな顔を見とるがみたいがに、
たたらちが持っとる、鏡の蓋みたい格好の二上山。
木の陰で暗ら〜なった谷を、朝の早よからホトトギスが飛んだらく。
夜なら月がやっとこさの原っぱに、遠らとホトトギス鳴いとる。
羽根が、かっついただけで散ってもう藤、なんちゅう可愛いがいろか。
そっで、花をしごいて袖に入れた。花で染まってもかまわんちゃ。

■冒頭から「真澄鏡」までは、「二上山」にかかる序詞らしい。
巻17-3955では玉櫛笥(たまくしげ:玉手箱みたいなもの。)の「蓋」が「二上山」の枕詞になっていた。 そうと分かれば、
「鍋の蓋 二上山を 仰ぎつつ 行くとしようか 今日も会社に」と何でも良い?

二上青少年の家に歌碑が有る。


19-4193 大伴家持
天平勝宝2年大4月9日・西暦750年5月22日 33歳

19-4193

ホトトギスの羽根、かっついただけで散ってもう。盛っりゃ過んだ藤ちゃ。

二上青少年の家の歌碑の側面に刻まれている。


19-4199 大伴家持
天平勝宝2年大4月12日・西暦750年5月25日 33歳

十二町潟へ行った。 船を田子に停泊し、藤の花を眺めた。

19-4199

藤、影写っとっし、水っじゃおくしいもんやさかい、 中の石っしゃ、まっで真珠みたいがに見えっちゃ。

■珠という氷見弁を知らないので、勝手に真珠にしてしまった。

■下田子の 田子浦藤波神社に、この 歌碑田子の藤が有る。
中の橋にも、この歌碑が有る。


19-4200 内蔵縄麻呂
天平勝宝2年大4月12日・西暦750年5月25日

19-4200

田子の藤の花、髪ん挿しにすっか。来られんだもんに見せたげるがに。

田子浦藤波神社 には、今でも藤の木があり、 田子の藤として有名です。


19-4201 久米広縄
天平勝宝2年大4月12日・西暦750年5月25日

19-4201

だらにしとったれど、田子の藤ちゃ、はんさ、おくしいのう。
このまんま泊まってっか。

■掾(じょう)の 久米さんは、ここでは判官(じょう:中央の役職名)となっている。


19-4202 久米継麻呂
天平勝宝2年大4月12日・西暦750年5月25日

19-4202

こんな藤の下で休んどったら、誰んかもから、漁師や思われっぞ。

■廬(ろ・いおり)は、丸い壷形の小屋。転じて粗末な小屋という。

この人は、 久米広縄の家族だろうか。


19-4203 久米広縄
天平勝宝2年大4月12日・西暦750年5月25日

ほととぎすの鳴声が、聞こえない。

19-4203

家のもんに、どう言や良いがか。ほととぎす、ちょっこし鳴けま。

■「東京、特許許可局」と鳴くらしい。でも私には「東京東京、特許許可局」と聞こえる。


19-4204 講師僧惠行
天平勝宝2年大4月12日・西暦750年5月25日

朴木の葉を見て。歌二首。

19-4204

あんたの柏の葉っぱちゃ、まっで傘みたいやね。

■朴木の葉、柏餅(かしわもち)と言えば分かる。 でも、中国の柏と日本の柏は違うらしい。

■「国師・ 講師」は、東大寺派の僧侶で、華厳経などの普及のため、 任命された地方僧官だそうです。


19-4205 大伴家持
天平勝宝2年大4月12日・西暦750年5月25日 33歳

19-4205

昔っしゃ、その葉っぱで酒、飲んだちゅがいの。

■皇祖(すめろき)は、コップを知らなかったのかな。

■親戚の人が、魚または肉に味噌またはバターを加え、 この葉っぱでくるみ、自宅でバーベキューをした思い出が有る。


19-4206 大伴家持
天平勝宝2年大4月12日・西暦750年5月25日 33歳

帰りに、浜の上に月の光を見た。

19-4206

雨晴に行くまで、ちょっこり月でも見るまいけ。 誰んかも、馬、止めやっしゃい。

■氷見からの帰りである。月の方角も納得できる。

■高岡市の太田(おおた)小学校に、この 歌碑・副碑が有る。


19-4210 久米広縄
天平勝宝2年大4月23日・西暦750年6月5日

19-4210

藤の時期も終ったがに、何んやして、ほととぎす、鳴かんがかのう。

■家持から、知らせてくれ、と頼まれたが、 自分も聞いていないと、返答したもの。


19-4213 大伴家持
天平勝宝2年小5月・西暦750年 33歳

丹比(たじひ)の家に贈った。

19-4213

あいの風の波みたいがに、だんだん思いや、でかなるがいぜ。

■母の丹比郎女(たじひのいらつめ)と、 妹の留女之女郎(るめのいらつめ)に贈ったのだろうか。


19-4218 大伴家持
天平勝宝2年小5月・西暦750年 33歳

漁師の漁り火を見て。

19-4218

メジを突っころがいとっ時の、漁師の漁り火みたいがに、 はっきっと言おうかのう、おらの思いを。

■鮪(しび)とは、マグロの成長過程の呼び名。地元では 「メジ」とも言う。「いざる」とは漁をする、と言う意味。 それにしても「竿で釣る」とか「網で獲る」のでは無く「ヤスで突く」とは豪快ですね。 今やマグロは、日本だけで無く中国でも人気だそうですが、 グルメの氷見人は、大昔から食べていたのですね。

■氷見の有磯高校 に、この歌碑が有る。 また、氷見の地酒に「曙」が有るが、この歌をモチーフにしている。


19-4226 大伴家持
天平勝宝2年大12月・西暦750年 33歳

雪の日。

19-4226

雪っきゃ溶ける春になったら、ヤブコウジの実でも見に行くまいけ。

■薮柑子(ヤブコウジ)は、 橘とは全く別種の植物で、冬に赤い実をつけると言う。

■氷見の有磯高校 に、この歌碑が有る。


19-4232 遊行女婦蒲生娘子
天平勝宝3年小正月3日・西暦751年2月7日

遊行女婦(うかれめ)蒲生娘子(かまふのをとめ)の歌。

19-4232

唐島の撫子ちゃ、ずっと咲いて欲しいがいちゃ。
あんたに何時まででも、かんざしにして欲しいから。

■氷見市史4の付録「憲令要略」によると、雪の島とは「唐島」らしい。 蒲田(かわた)の娘ちゃん(私の想像)、なかなかやるじゃない。 遊行女婦土師に仕込まれたのか?


19-4239 大伴家持
天平勝宝3年小4月16日・西暦751年5月19日 34歳

ほととぎすを詠んだ。

19-4239

二上山に隠れても〜た、ほととぎす。 どっだけ待っとっても、鳴かんがいちゃ。

■太陽歴の5月19日と言う。 この人は何年もこの地に住んでいて、奈良との時差ボケが治っていない。


19-4249 大伴家持
天平勝宝3年小8月4日・西暦751年9月2日 34歳

19-4249

石瀬で鷹狩せんとって、別れんならんがかのう。

■私の通勤途上なので、範疇としました。 (巻19-4154
小鷹狩・初鳥狩(はつとがり)は秋の狩。 これに対し大鷹狩は冬の狩だそうです。

■高岡市の 野村小学校いわせの郵便局向陵高校に歌碑が有る。 また、富山市岩瀬の 諏訪神社にもこの歌碑があった。 「いしぜ」と「いわせ」どちらが本家なのだろうか?


19-4250 大伴家持
天平勝宝3年小8月4日・西暦751年9月2日 34歳

8月5日に、納税台帳の提出を兼ね、都へ戻る事になった。
その前日に、内蔵縄麿の館で、
役所の料理人に用意させ、送別会を行った。

19-4250

ざいごや思とったれど、五年もおっちゅうと、別れるが、辛ら〜なってくる。

■初夜(よひ)とは夜を三分した最初の時間、18:00〜22:00頃か。 新婚初夜では無く、宵(よい)らしい。
家持の越中守在任は天平18年より勝宝3年まで満5年、 足かけ6年に及びました。

■私のページも、もう終わりが近づきましたね。


19-4251 大伴家持
天平勝宝3年小8月5日・西暦751年9月3日 34歳

夜明けの午前四時頃、都への帰途についた。
国府の職員が、揃って見送ってくれた。途中、
加納の安努君広島の門前の林の中で、別れの宴を開いた。

19-4251

都に戻るがいけど、あんたらちとの思い出ちゃ、も〜と忘れんぞ。

広島さんとは、どんな人だろう。
郡司とは、大領・少領・主政・主張の四等官で、終身とされている。 味川(碁石)出身で、加納(かんの)の大地主となり、 後に地方豪族として、この辺りを掌握した 伊弥豆国造(いみずのくにのみやつこ)の子孫なのだろうか。

■地元の有力な民間人を、上手に律令制度に組み入れる事が、 当時の仕事の一つだったと思う。 家持さんも、この人が無視できなかったし、世話になったと思う。
引継ぎ事項として、 能登臣乙美の本採用も提案したに違い無い。

■加納の 八幡神社 に、この 歌碑・副碑が有る。また、鞍川に 安努神社が有ると言う。 都への帰り道に因んだらしい。 とすると、いつもの政務の 粟原越え では無く、もう最後だから思い出の 日名田越え だったのか。 氷見人としては今更、定説の北陸道越えとは考えたく無い。


19-4290 大伴家持
天平勝宝5年2月23日・西暦753年4月5日 36歳

気が向いたので詠んだ。

19-4290

春ながに、夕暮れの霞でウグイスを聞くと、何やら切ない。

■越中在任期では無いが、高岡の 新保氏宅に歌碑が有るので取り上げた。

■取り敢えず氷見弁で読む万葉集は、 以上でお終(しま)いです。 永らく、ご精読あり難うございました。今後とも、宜しくお願いします。


番外

20-4516 大伴家持
天平宝字3年元旦・西暦759年2月6日 42歳

元旦拝賀式の後、答礼の宴で詠んだ。

20-4516

正月早々、雪っきゃ降るちゅうこっちゃ、なんちゅう目出度いこっちゃのう。

■天平宝字2年(758年)旧暦7月、家持は因幡国守として赴任した。 その半年経った正月、この年は17年に一度の立春が重なった特別の元旦だったと言う。 しかも、新年の降雪は豊作を予兆する吉言・吉事(めでたい出来事)でした。

■この日、中央では寿詞、因幡国庁では拝賀の式が行われる。 「凡そ元日には、国司皆僚属(れうぞく)郡司等を率(ひき)ゐて、庁(ちやう)に向かひて朝拝(でうばい)せよ。 訖(をは)りなば長官賀受けよ。宴設(まう)くることは聴(ゆる)せ」(儀制令)。 この一首は、引き続き行われる宴において答礼として詠まれた。 それは「因幡の雪」を題材とした因幡国守として唯一の、そして万葉集の最後を飾る賀歌となった。

有磯(3)

■ 立春。昔の中国では「一番寒い日を新年と定める」ということで、この日を新年としたそうです。 従って「暦の上では、春なのですが…」と言う表現は、ニュアンスがかなり違うのです。

■かの 因幡万葉歴史館中山和之さんの著によると、 因幡国庁跡近くに、 この歌碑が建立されているらしい。氷見では 有磯高校の校庭に、この歌碑が有ります。


氷見弁で読む万葉集(巻17〜巻19)


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