窪の新川物語

私の近所では、新川・湊川の河川工事が何十年も続いている。


はじめに

■私が小学生の頃、父母から聞いた話をもとに「窪の新川」の紙芝居を作ったことがあった。 そして、研究成果として教室で発表した思い出がある。

化鷺

■大伴家持の頃から、ここには十二町潟を塞いでいた砂洲が有った。 風光明媚な布施の湖も、時として十三谷(じゅうさんだに)からの流水で潟は氾濫し、 農民にとっては稲の冠水、町方では家へ浸水などと、多くの人々が何百年も苦しめられていたのである。 河口は、比美の江(今の湊川)のみだった。 家持は、天候の良い日を選んで遊覧したので、そんな事とは知らずに、年貢を取り立てていたのだろうか。

■時は移り、江戸時代後期、ついに偉人が現れた。 十村役の作五郎さんと、それを助けた矢崎の嘉十郎さんである。 彼らは砂洲にクリチカルパスを掘った。このページは、その偉人逹の話である。

これらの記事は、全て私の独断・偏見です。 地図がみられます。
文献も参考 にしていますが、このページを当てにしないで下さい。
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「窪の新川」とは?

■窪の「新川橋」(仏生寺川右岸)に記念碑があり、 その碑文には、次のように書いてある。

□十村役(とむらやく)は、いわば北陸地方の大庄屋さん。
加賀藩から任命され、政治の手足となった。 慶長9年(1604年)前田年長により十村の制度が作られ、 いくつもの村落を束ね、年貢徴収のために農民の生産力向上などに努めたと言う。

□七萬五千餘金…総工費75,000余貫とは一体、幾らだろう。
江戸時代の幕末では、かけそば1杯が20文(現在の400円か?)だったとしたら、銅銭の1文は、現在の20円に換算できるだろう。 従って、1金(1貫・1000文:3.75kg)は約2万円となり、総工費は15億円以上となったのか?

経費総額74,434貫716文
内訳藩丁補助額42,259貫564文
関係村割当額24,129貫231文
矢崎嘉十郎寄附額8,045貫921文

□人夫は延44,471人、その賃金は53,365貫200文と言う。 一人当たり約1貫200文とすると、平均で日給24,000円となる。バブル時代ならこんなものか。 現在の感じでは、一貫は約15,000円かも知れない。 そうすると総工費は約11億円に修正(?)しよう。

布施

□現在、「新川」という名称は、どの地図にも出ていない。
二級河川「仏生寺川」の「清見橋」から海岸までの人工の川であり、運河でもある。 この事は、氷見でも近隣や年配者しか知らず、やがて死語になるだろう。


碑文の読み下し。

地図 記念碑

■碑額(碑額小篆体)

■碑文(楷書体)

□注釈の漢字は、ブラウザによっては表示・印字されていないかも知れない。

*1…し→艸(くさかんむり)+巛(かわ)+田
*2…よ→余(かんむり)+田
*3…しょう→水(さんずい)+夫…辞典には無かった。
*4…けん→田(へん)+犬

□釐(り)は毫(ごう)の10分の1の重さという。
いかにも漢文らしい、大袈裟(小袈裟?)な表現ですね。

■台座(北魏摩崖風楷書体)

□古江新は開墾地のため住人は無く、土地所有者は別の村に住んでいた。 加賀藩の開墾政策により、一つの村として組織されていたという。

□近隣では柳田の名が見えない。柳田・宮田には別の歴史が有るらしい。

■台座の左横書

□漢字の部分のみが碑文です。
従って、ひらがな・カタカナ・送り点・記号は、解釈のため私が勝手に追記したものである。 碑文は風化が進んでおり、 文字は漢文調に加え、旧字体・異字体が混ざり、私にはさっぱり解らない。 また、全く漢文の素養が無いので、適当に解釈している。誰か教えて下さい。

□採集した碑文の内容(Word2000の文書)を紹介します。 ダウンロードには、ちょっと重いのですが。 ブラウザの種類やワードのバージョンによっては、化け字になっているかも知れないし、 プリンターの機種によっては、印字されない文字も有るでしょうね。

□碑文は苦労しながら自力で読み下したが、その後「氷見の先賢」第一集に解説を見つけた。 少しの部分で違っていたが、大意には変わりが無く安心している。面倒なので後日、訂正しようと思っています。

□台座の左横書にある石商とは、現在の (株)太田石材店なのだろうか?


矢崎嘉十郎

地図

■清水武助(五代、矢崎嘉十郎)

1829年(文政2年)4月16日、十二町清水の清水家に生まれ、幼にして矢崎家に入った。
矢崎家は元々豪農であったが、当時の家運は順調ではなかった。 しかし、武助はこの養家を整え、やがて村政に参与し一郷の信望を集めた。 俗称、矢崎の旦那はん。
1904年(明治37年)3月25日逝去、享年85歳。

□文献:「氷見春秋」第 12号:辻七郎氏(窪)、「氷見の先賢」第一集


僧蒙(そう・きざし)

地図

■北方心泉(きたがたしんせん)

僧侶、書家。「布施貫通碑」の書者。
1850年(嘉永3年)〜1905年(明治38年)享年56歳。
金沢市木ノ新保五番丁(現、少将町 6-23) 真宗大谷派北方山常福寺十二世住職致風の三男として生まれ、 石川舜台らに学び、同寺十四世住職となる。
幼名:祐必、
名:蒙、字:心泉、
号:月荘、別に小雨・雲迸(うんぼう)、 文字禅室主人・聴泉閣主人・憶松閣主人、酒肉和尚などと号した。

■清国布教師として東本願寺から清国に派遣、 明治10年から延べ十年間に渡り、中国本土で布教活動に従事された。
その間、兪曲園・胡鉄梅、他多くの文人と交流を深め、 仏教を初め書道、碑学・帖学を悉く学ばれ、多くの資料を日本にもたらし、 近世書道第一流の名手とうたわれた。

■最近(2001年5月19日)、同寺常福寺の多目的ホール2階部分に「心泉記念館」が開設され、 北方心泉が収集した蔵品などが展示されているという。いつか訪ねてみたい。

□文献:「氷見春秋」第45号:上田北山氏(城端町)
□参考: 金沢百万石ロータリークラブ・ 卯辰山のいしぶみ(碑)


新川に架かる橋

■現在、窪の新川にはJRの鉄橋を含め、多くの橋が架かっている。
しかし、昔は八幡橋・新川橋のみで、馬車や木炭車しか通らず、粗末なものだったと記憶している。 最近は、川幅や道路の拡張工事に合わせ、随分と立派になった。


■この新川では、氷見市の消防訓練が行われる。 (上庄川・湊川・新川の3箇所で持ち回り。) 今回は、秋季消防訓練(平成15年9月6日)が行われた。

■9月6日、いわゆる「氷見の大火」の日である。
1938年のその日、下伊勢から出火し、18町・1,543軒が焼失したと言う。 この日は、消防本部および市内の全分団が集まり、勢揃いとなる。 とにかく圧巻だった。


昔の八幡橋

地図

■JA氷見市窪支所の階段踊り場に、次の絵画が掲示してある。

■国道415号線(昔は160号)、昔の八幡橋です。 池渕商店から見た橋梁で、建物は当時のJA窪支所である。 建物左の電柱との隙間を注意深く見ると、石碑が存在する。これが、元の位置の布施貫通碑(ふせかんつうひ)である。 当時の「窪の風呂」が電柱の左の建物であった。 この河川改修により、JA窪支所・倉庫、窪の湯、善照寺など、多くの建物が移転した。


ヨイトマケの唄

■この旧八幡橋の絵画を見ていたら、どうした訳か「ヨイトマケの唄」が蘇ってしまった。 これは、歌手の丸山明宏(現:美輪明宏・昭和39年頃)さんが作詞作曲した名曲だったが、 差別的な用語が混じっているとの事で、間もなく放送禁止となってしまったのだ。 しかし、数十年たった今でも、例えば米良美一さんらがカバーし、歌い続けられている。

■当時、私は小学生だった。 新川べりの工事では、ユンボもランマーも無い、だただた人海戦術なのだった。 そしてヨイトマケ・グループからの唄声が響く。 当地のヨイトマケの唄には「速いヨイトマケ」と「のんびりしたヨイトマケ」の二種類が有ったと思う。

■例の「父ちゃんのためならエ〜ンヤ・コ〜ラ、母ちゃんのためならエ〜ンヤ・コ〜ラ」は後者の部類だろう。 しかし、当地の当時は「父ちゃん・母ちゃん」だけでは間が持たない。従ってアドリブも加わり、かなり卑猥な言葉が混ざる。 ウケると働く父ちゃんも母ちゃんも大笑い、リーダーの機嫌も上がる。 労働歌とは、そうやって労働の苦しみを紛らわせていたのだろう。


トロッコ

■現在、湊川は複雑なサイフォン方式で仏生寺川などから分流されているらしいが、 湊川は新川から分流しており、未だ水門も設置されていなかった時代のことである。 従って、川を舟(ダゾル・テンマ)で行き来でき、 湊川から十二町潟に流入する川があれば、広範囲で行き来できたのだった。

■そんな時代の河川工事は「ヨイトマケ」だけでなく、当時は近代兵器の「トロッコ」も稼働していたのだ。 トロッコとは「トラック」の訛りらしい。 断っておくが、黒部峡谷鉄道のトロッコ列車を想像してはいけない。 レールの上を動力を使わず、もっぱら人力で土砂を押して運搬するのだ。 木製の箱に、レールに乗っかるホイールが付いているだけでる。 連結器も付いていたが、それは空車を連結して返送する場合のみ、使用していたのだろう。

■当時は、工事現場といっても区画や安全柵も無く、自由に出入り出来たのであった。 そんな場所を、遊び好きな子供達が見逃すわけが無いだろう。 レールが敷かれた場所は、恰好の遊び場となった。 空荷のトロッコは子供でも動かせ、楽しい乗り物である。 しかし、所詮は子供の浅知恵、ついに事故が起きてしまった。 これ以上は、思い出したく無い。 そして、当の本人は後遺症を引きずる人生となったに違いない。


あとがき

■仏生寺川・万尾川・湊川は、永遠に河川工事が続いている。
これらは国営・県営・市営だったりするが、私の子供の頃からの思い出でもある。 耕地整理で田圃の場所が変わったり、工事の振動で家が揺れ動いた事もあった。 現在は、清見橋の架替工事などが進められている。この先、どうなるのであろうか?

■土地改良区や河川工事の仕事は、近隣でも良く知られていない。
近くに住んでいながら誰に聞いても良く分かっていないし、これまで工事関係者からの説明も、殆んど受けていなかった。 ある日突然、土地改良区からの請求書が現れてビックリし、電話で担当者と口論したが、結果として分割払いとし、泣き寝入りした思い出がある。 工事が終わって、業者の見積範囲なのか、やっと説明標識が立てられる。 また、文化的な影響も子々孫々と続いている。 例えば、本籍と現住所が同じ場所にいるのに、運転免許は「同上」では無い。 親と子が別の学区となり、話が噛み合っていない。最近の地籍調査でも、しっくりとは行かない。

■恩恵を受けた筈の上流域も、農業離れが続く。
この事業の結果が、大型スーパーやパチンコ店に利用された事実は、大伴家持はどう思うだろうか? そして、歴史も忘れ去られてしまうだろう。 また、新川によって部落が分断された事実は、100年経った今でも続いている。 どうやら、私のホームページ作りの原点かも知れない。


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